大島理森氏は、青森県議を出発点に衆議院議員を12期務め、環境庁長官、文部大臣・科学技術庁長官、農林水産大臣、自民党幹事長・副総裁を経て、衆議院議長を務めた政治家です。
その歩みをたどると、幼い頃から政治家を目指して一直線に進んだ人物像とは少し違います。少年時代に憧れた仕事は鉄道員。大学卒業後は毎日新聞社で働き、20代後半になってから地元・八戸へ戻り、選挙の世界へ入りました。
- 青森県八戸市の農家に育ち、慶應義塾大学卒業後は毎日新聞社に勤務。29歳で県議へ転身しました。
- 1980年の衆院選で一度落選した後、1983年に国政入りし、閣僚や自民党の国会対策・党運営を担いました。
- 2015年から2021年まで衆議院議長を務め、天皇の退位をめぐる立法府の調整などに携わりました。
大島理森の生い立ち|八戸の農家と、人の出入りが絶えない家で育った
大島理森氏は1946年9月6日、青森県八戸市に生まれました。育った尻内町は鉄道駅に近い地域で、実家は農家でした。父は青森県議会議員を務め、叔父にも衆議院議員経験者がいる家庭です。
一方、家庭の中心にあったのは農業でした。母は農作業を担い、父が政治活動で家を空けることも多かったといいます。当時は電話のある家がまだ少なく、大島家の電話に近所への連絡が入り、家族が先方まで知らせに走ることもありました。本人は後年、家を「小さいコミュニティの広場」のようだったと振り返っています。
政治家の家庭だからといって、幼い頃から父と同じ道を望んだわけではありませんでした。家には絶えず人が訪れ、家族だけで過ごす会社員家庭を羨ましく感じていた時期もあったそうです。
私は小さい頃は、鉄道員になりたかったんです。
出典:公研「人間も国も生かされて生きている 国会を知り尽くした政治家が語る民主主義の原点」(2023年8月号)
尻内駅の近くには国鉄職員の家庭があり、仕事から帰ってきた父親と家族だけで夕食を囲む姿が印象に残りました。政治家の家とは違う暮らしへの憧れから、鉄道員という仕事を思い描いていたと語っています。
中学2年生の1960年には、安保闘争を伝える新聞を読み、東京で起きている出来事に強い印象を受けました。本人によれば、これが政治を志す直接の契機だったわけではありませんが、身の回りの地域を越えて社会の動きを意識した最初期の経験でした。
大島理森の学歴|三条中学校、八戸高校から慶應義塾大学へ
| 区分 | 学校名 | 学部・専攻 | 現在の偏差値・難易度 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 小学校 | 八戸市立三条小学校 | ― | ― | 青森県八戸市 |
| 中学校 | 八戸市立三条中学校 | ― | ― | ― |
| 高校 | 青森県立八戸高等学校 | ― | 70(2026年度版) | ― |
| 大学 | 慶應義塾大学 | 法学部法律学科 | 65.0〜67.5(法学部・2027年度) | 卒業 |
※偏差値・難易度は大島氏の在学当時ではなく現在の目安です。
地元の八戸市立三条小学校、三条中学校を経て、青森県立八戸高等学校へ進みました。中学校ではテニスに取り組み、教師から勧められて弁論大会へ出た経験もあります。
八戸高校では応援団の副団長を務めました。スポーツに打ち込む同級生を応援する一方、本人の回想では成績は決して目立つものではなく、高校3年生の夏ごろから本格的に受験勉強へ向かったといいます。
東京に姉や兄がいたこともあり、進学先として早稲田大学や慶應義塾大学を意識するようになりました。最終的に慶應義塾大学法学部法律学科へ進学します。
大学時代は全共闘運動やベトナム戦争など社会が大きく揺れた時期と重なりました。ただし、この時点でも政治家になることを明確に決めていたわけではありません。卒業後の1970年、選んだ就職先は毎日新聞社でした。
毎日新聞社で新しい地域媒体づくりを経験
毎日新聞社では広告部門に入り、その後、地域単位で配布する新しい媒体づくりにも携わりました。既存の新聞とは異なるコミュニティーペーパーのような企画で、取材や広告集めまで幅広く経験したと振り返っています。
仕事そのものを嫌っていたわけではありません。しかし働き始めて数年が過ぎると、「このままでいいのか」「自分の人生はこれからどうなるのか」という思いが生まれました。地域と直接関わる政治へ意識が向かい始めたのは、この頃です。
1974年初め、翌年の青森県議選に出たいと父に伝えました。父から返ってきたのは、選挙は考えているほど甘くないという言葉でした。ところが同年4月、父は突然亡くなります。
父以外の家族には立候補の意思を話しておらず、母は強く反対しました。それでも初盆を終えた頃には決意を固め、9月に新聞社へ退職届を出して青森へ戻ります。
「父の遺志を継いで政治をやります」と言ったことは一度もありません。
出典:経済界ウェブ「史上初の戦後生まれの衆議院議長が語る政治家としての本音」(2016年5月19日)
1975年4月の青森県議選に八戸市選挙区から無所属で立候補。地元を長く離れていた新人でしたが、12人の候補者のうち2位で初当選しました。28歳でした。
大島理森の経歴|県議2期から国政へ、最初の衆院選は落選
1979年の県議選では自由民主党から再選。地方議員として2期目を歩んでいたところ、今度は衆議院への挑戦が現実になります。
1980年、第36回衆議院議員総選挙の旧青森1区に自民党から出馬しました。当時の旧青森1区は複数人を選ぶ中選挙区で、八戸だけでなく青森市や下北地域まで含む広い選挙区でした。
結果は次点で落選。県議として八戸で名前が知られていても、国政選挙では選挙区全体へ支持を広げる必要がありました。本人は後年、この落選後の約3年半について、人のありがたさを知った期間として振り返っています。
そして1983年12月の第37回衆院選で旧青森1区から初当選。ここから2017年まで衆議院議員として12回連続で当選することになります。
| 年月日 | 選挙 | 選挙区・地域 | 所属 | 結果 | 得票・順位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1975年 4月13日 | 青森県議会議員一般選挙 初出馬・初当選。12人中2位。 | 八戸市選挙区 | 無所属 | 当選 | 11,182票 2位 |
| 1979年 4月8日 | 青森県議会議員一般選挙 県議2期目。 | 八戸市選挙区 | 自由民主党 | 当選 | 11,976票 4位 |
| 1980年 6月22日 | 第36回衆議院議員総選挙 衆議院初挑戦。 | 旧青森 1区 | 自由民主党 | 落選 | 63,958票 5位 |
| 1983年 12月18日 | 第37回衆議院議員総選挙 衆議院初当選。 | 旧青森 1区 | 自由民主党 | 当選 | 98,275票 1位 |
| 1986年 7月6日 | 第38回衆議院議員総選挙 衆議院2期目。 | 旧青森 1区 | 自由民主党 | 当選 | 100,653票 2位 |
| 1990年 2月18日 | 第39回衆議院議員総選挙 衆議院3期目。 | 旧青森 1区 | 自由民主党 | 当選 | 84,302票 4位 |
| 1993年 7月18日 | 第40回衆議院議員総選挙 衆議院4期目。 | 旧青森 1区 | 自由民主党 | 当選 | 102,921票 2位 |
| 1996年 10月20日 | 第41回衆議院議員総選挙 小選挙区制移行後、青森3区から当選。 | 青森 3区 | 自由民主党 | 当選 | 96,628票 1位 |
| 2000年 6月25日 | 第42回衆議院議員総選挙 衆議院6期目。 | 青森 3区 | 自由民主党 | 当選 | 93,602票 1位 |
| 2003年 11月9日 | 第43回衆議院議員総選挙 衆議院7期目。 | 青森 3区 | 自由民主党 | 当選 | 86,909票 1位 |
| 2005年 9月11日 | 第44回衆議院議員総選挙 衆議院8期目。 | 青森 3区 | 自由民主党 | 当選 | 90,925票 1位 |
| 2009年 8月30日 | 第45回衆議院議員総選挙 次点との差367票で当選。衆議院9期目。 | 青森 3区 | 自由民主党 | 当選 | 90,176票 1位 |
| 2012年 12月16日 | 第46回衆議院議員総選挙 衆議院10期目。 | 青森 3区 | 自由民主党 | 当選 | 74,946票 1位 |
| 2014年 12月14日 | 第47回衆議院議員総選挙 衆議院11期目。 | 青森 3区 | 自由民主党 | 当選 | 59,280票 1位 |
| 2017年 10月22日 | 第48回衆議院議員総選挙 区割り変更後の青森2区から当選。衆議院12期目となり、最後の国政選挙となった。 | 青森 2区 | 自由民主党 | 当選 | 133,545票 1位 |
官房副長官から環境、教育、農政へ
国政入り後は国会や党内の実務を経験し、1990年、第2次海部内閣で内閣官房副長官に就任しました。湾岸危機から湾岸戦争へと国際情勢が動く時期でもあり、後年のインタビューでも当時の政府内の議論を振り返っています。
1995年8月には村山改造内閣で環境庁長官に就任。2000年7月の第2次森内閣では文部大臣と科学技術庁長官を兼務し、教育改革国民会議や、翌年に予定されていた文部省と科学技術庁の統合へ向けた準備に関わりました。
2002年9月には小泉内閣で農林水産大臣に就任します。農政を担当する一方、元公設秘書らをめぐる金銭授受などの疑惑が国会で取り上げられました。大島氏は疑惑について説明を続けてきたとの立場を示したうえで、秘書に対する監督責任などを理由に、2003年3月31日に大臣を辞任しました。
辞任会見では、年度予算の成立やWTO交渉に一区切りがついたことにも触れています。ここでは疑惑そのものと、大島氏が閣僚として監督責任を取って辞任した事実を分けて捉える必要があります。
国会対策から幹事長、副総裁へ
大島氏の政治経歴では、閣僚だけでなく国会運営と党務の比重も大きくなっていきます。衆議院議院運営委員長や予算委員長を務め、自民党では国会対策委員長を複数回担当しました。
2009年の衆院選で自民党が政権を失うと、谷垣禎一総裁の下で幹事長に就任しました。翌2010年9月には自民党副総裁へ移り、党運営全体を補佐する立場となります。
政権復帰後は東日本大震災復興加速化本部長を務めました。2013年には公明党と共同で、住まいの再建、暮らしや生業、原子力災害への対応などを盛り込んだ復興加速策を政府へ提言。福島については帰還支援だけでなく、新しい生活を選択する人への支援も提言に組み込まれました。
東日本大震災から3年となる2014年には、本人Xでも被災地の課題を扱うテレビ出演を案内していました。
衆議院議長へ―「公正円満な運営」を掲げる
2015年4月21日、大島氏は第76代衆議院議長に就任しました。党の幹部や閣僚として政策・政局の当事者となる立場から、与野党を含む衆議院全体を運営する立場への移行でした。
2017年の衆院選後にも議長へ選出され、第77代議長として続投します。その際の本会議で、議長として重視する姿勢を次のように述べました。
議院の公正円満な運営に全力を傾注いたします。
出典:衆議院「第195回国会 本会議 第1号」(2017年11月1日)
第76代と第77代を合わせた議長在職日数は2336日。2021年の退任時点で衆議院議長として歴代最長の在職日数となりました。
天皇の退位をめぐり各党・各会派の合意点を探る
議長時代を代表する仕事の一つが、天皇の退位をめぐる立法府の対応です。2016年8月に天皇陛下(当時)が退位の意向をにじませる「お気持ち」を公表すると、国会側でも対応が必要になりました。
退位の問題を決して政争の具にしてはならない。
出典:文藝春秋PLUS「『退位特例法』とりまとめは大変だった」(2017年7月10日)
大島氏と伊達忠一参議院議長、両院副議長は、2017年1月から各党・各会派との会議を重ねました。意見の異なる各会派から個別に話を聞き、3月には立法府としての考え方をまとめ、特例法制定へつながっていきます。
特定の政党案をそのまま通すのではなく、議長・副議長が各会派の意見を聞きながら合意可能な線を探すという進め方が取られました。
大島理森氏が重視してきた政策・政治姿勢
国会は「国民のため」にあるという考え方
政界引退後も繰り返し語っているのが、国会審議の役割です。2026年3月、予算審議について取材を受けた際には、与党・野党・政府のいずれかのためではなく、国民のための国会であるという考えを示しました。
国民のためにある国会です。
出典:テレ朝NEWS「『充実審議は民主主義の根本』歴代最長議長務めた大島理森氏が苦言」(2026年3月21日)
同じインタビューでは、制度や先例を改めること自体を否定するのではなく、その場合にも国会全体のあり方を考え、説明責任を果たすことが必要だとの認識を示しています。
東日本大震災からの復興と生活再建
復興加速化本部長としてまとめた2013年の緊急提言では、住宅・宅地の再建、生業や産業の復興、原子力災害への対応、復興交付金の柔軟な運用などを扱いました。
同年後半の第3次提言では福島第一原発事故からの復興へ重点を移し、除染・中間貯蔵、廃炉・汚染水、賠償、新しい生活を選択する住民への支援などを整理しています。党の提言であり、大島氏個人の政策だけではありませんが、本部長として取りまとめを担いました。
農業と地域を一体で考える視点
八戸の農家で育った大島氏は、農業を自らの原風景として繰り返し語ってきました。やませによる冷害を身近に感じた地域で育ち、衆議院議員になった後も田植え後の時期に田んぼの畦へ座ることがあったと振り返っています。
農林水産大臣として国の農政を担当した期間は約半年でしたが、食料の安定供給だけでなく、農村や環境を含めた地域の持続性を考える立場を示しました。
気候変動を「次世代への責任」と捉える
2020年11月、衆参両院は気候非常事態宣言決議を可決しました。大島氏が議長を務めていた時期の国会で、全会派が賛成した決議です。
引退後は日本気候リーダーズ・パートナーシップ(JCLP)の特別顧問として、気候変動についても発言しています。
気候変動は人類全体の生存の問題であり、この問題に取り組むことは次世代への責任であると考えています。
出典:日本気候リーダーズ・パートナーシップ「インタビュー:JCLP特別顧問 大島理森」(2023年11月1日)
対立があっても合意点を探す
国会対策委員長としては、与野党が厳しく対立する場面も数多く経験しました。一方、議長になってからは党派を離れた立場で議院を運営し、退位をめぐる対応では各会派の合意形成を進めました。
2021年には次の衆院選へ立候補しない意向を表明。県議2期、衆議院議員12期を経て政界を引退しました。
大島理森氏の国会発言をテーマ別に見る
記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。
議会制民主政治と国会運営
「議院の公正円満な運営に全力を傾け」
衆議院議長就任時、議会制民主政治の本旨にのっとり、公正で円満な議院運営に努める方針を示した。
農村の維持と地域づくり
「農村は農業者だけの価値ではない」
農林水産大臣として、農村を農業者だけのものではなく国民全体に関わる価値として捉え、集落や農村を維持する政策体系の必要性を述べた。
科学技術と倫理
「あらゆる科学技術に倫理という問題の裏づけがございませんと」
科学技術庁長官として、科学技術、とりわけ生命科学を進める際には倫理的な検討が不可欠との認識を示した。
気候変動と森林吸収源
「森林の吸収目標として山林が認められております」
京都議定書の温室効果ガス削減目標に関連し、森林による二酸化炭素吸収を農林水産政策上の重要課題として位置づける考えを述べた。
※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。
映像で見る大島理森氏
2025年に収録されたTBS NEWS DIGのインタビューでは、長年の国会経験を踏まえた政治観を本人の話し方とともに確認できます。
大島理森氏の現在情報
2021年の政界引退後も、元衆議院議長として国会審議や議会制民主主義について発言を続けている。2026年9月時点では横綱審議委員会委員長としても活動している。
※商品リンクにはアフィリエイトリンクを含みます。
本文内の関連投稿に加えて、本人の公式Xから最新の投稿を表示しています。
@tadamori_oshima の公式Xを見る- 第76代・第77代衆議院議長の就任・退任を確認
- 2017年11月1日の衆議院議長再任と就任あいさつを確認
- 天皇退位をめぐる両院議長・副議長と各党各会派の協議を確認
- 東日本大震災復興加速化本部長として取りまとめた復興政策を確認
- 2026年3月現在、自由民主党青森県支部連合会顧問であることを確認
- 1980年から2017年までの衆議院議員総選挙の出馬、党派、得票数、当落を確認
- 毎日新聞社勤務、父への出馬相談、県議選、国政初挑戦などを確認
- 出生、学歴、毎日新聞社勤務、県議転身、国政経歴、議長、引退までの本人インタビュー
- 幼少期、家庭環境、学生時代、政治や民主主義についての本人インタビュー
- 気候変動に関する本人の考えを確認
この記事の更新履歴
- 2026年10月2日 学歴後の最初の職歴・政界入りを経歴H2へ再配置し、後続の経歴項目を人物固有H3へ整理
- 2026年10月2日 経歴の続きと重複政策H2をH3へ整理し、高橋光男・岸本周平記事と同じ見出し階層へ統一
- 2026年10月2日 本文内の手動管理ショートコードと監査用の汎用H3を撤去し、WordPress側の自動表示と内容に即した見出し構造へ整理
- 2026年10月2日 本文内の公式X投稿が5件未満の記事について、既存の関連投稿を保持したまま本人公式Xの最新投稿で不足分を補完
- 2026年10月2日 主要見出しを「生い立ち・学歴・経歴」の3本柱へ統一し、既存本文を維持したまま検索意図と読みやすさを整理
- 2026年10月2日 本文の重要な年月・当選・就任・退任などを赤文字で強調し、重要箇所の視認性を改善
- 2026年9月29日 本人公式Xの投稿を、東日本大震災からの復興に関する本文の補足として追加。
- 2026年9月24日 記事を新規作成。全選挙歴、主要政治経歴、政界引退後の所属・役職など現況情報を確認
- 2026年9月24日 本人の公式一次情報をテーマ別に確認できる一次情報深掘りセクションを追加・更新。




















