志賀義雄の経歴・学歴と生い立ち|獄中18年から衆議院議員、党除名後まで

志賀義雄
ひと目でわかるプロフィール 志賀義雄
しが よしお
出身地
福岡県門司市(現・北九州市門司区)
初当選
1946年(第22回衆議院議員総選挙)
最終学歴
東京帝国大学文学部社会学科卒業
主な前職
政党職員、新聞記者・ジャーナリスト
政界入り
政党職員から
生年月日 1901年1月12日
没年月日 1989年3月6日

志賀義雄は、戦前の非合法期の日本共産党で活動し、三・一五事件による検挙後は長期にわたり拘禁され、敗戦後に国政へ進んだ政治家です。

少年期を過ごした萩、東京帝国大学での学生運動、18年間に及ぶ獄中生活、戦後の衆議院議員としての活動、そして1964年に日本共産党を除名された後まで、その歩みをたどります。

志賀義雄氏を理解する3つのポイント
  1. 門司に生まれ、萩中学校から第一高等学校、東京帝国大学へ進み、学生運動から共産党活動に入りました。
  2. 1928年の三・一五事件で検挙され、敗戦後の1945年まで約18年間拘禁されました。
  3. 戦後は衆議院議員を通算6期務め、1964年の部分的核実験停止条約をめぐる投票を機に日本共産党から除名されました。

志賀義雄の生い立ち|門司で生まれ、萩へ移った少年時代

志賀義雄は1901年1月、福岡県門司市に生まれました。旧姓は川本です。1906年、母方の祖父である志賀家の養子となり、志賀姓を名乗るようになりました。

1913年、小学校卒業後に山口県萩町へ移ります。少年期から青年期へ移る時期を萩で過ごし、山口県立萩中学校へ進学しました。

後年、徳田球一との共著『獄中十八年』で自身の半生を振り返っています。志賀篇には中学生時代の米騒動への参加を扱う章もあり、本人の回想では、政治運動へ本格的に入る以前の経験から語り始めています。

萩中学校の後は旧制第一高等学校へ進み、さらに東京帝国大学文学部社会学科へ進学しました。地方の旧制中学から一高、帝大へという進路の中で、志賀の活動の場は萩から東京へ移っていきます。

志賀義雄の学歴|第一高等学校から東京帝国大学へ|学生運動と日本共産党

学歴一覧志賀義雄の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
旧制中学山口県立萩中学校―旧制度・比較不可旧制中学校
旧制高校第一高等学校―旧制度・比較不可旧制高等学校
大学東京帝国大学文学部社会学科旧制度・現在の東京大学偏差値とは直接比較不可卒業

※志賀義雄の学歴は旧制中学・旧制高校・東京帝国大学時代の制度によるため、現在の偏差値へ換算していません。

東京帝国大学では学生運動に加わり、新人会に参加しました。学生連合会の活動にも関わり、在学中の1923年に日本共産党へ入党します。

1925年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業した後は、共産党の活動へ深く入りました。1927年には党中央常任委員となっています。

のちの選挙記録からは、政治活動と並行して言論・出版に関わっていたことも確認できます。1946年総選挙時の職業は「雑誌記者」、1949年総選挙時には「日本共産党中央委員/アカハタ主筆」と記録されました。

三・一五事件で検挙|戦後まで続いた18年間の拘禁

1928年3月、政府は日本共産党関係者を全国で一斉に検挙しました。三・一五事件です。党中央で活動していた志賀も検挙されました。

ここから志賀の生活は大きく変わります。拘禁は敗戦後まで約18年間に及びました。治安維持法下で収監され、刑期の後にも予防拘禁によって自由を奪われる時期が続きました。

徳田球一と志賀が戦後に口述した『獄中十八年』には、取り調べや公判だけでなく、監獄での季節、読書、予防拘禁所、空襲下での生活までが記されています。政治経歴の空白ではなく、20代後半から40代半ばまでを占めた長い生活そのものでした。

終戦後の1945年10月、GHQは治安維持法などによる政治犯の釈放を求めました。10月10日、志賀は徳田らとともに予防拘禁所から釈放されます。

18年ぶりに自由を得たその日から、志賀は再び政治活動へ戻りました。徳田と「人民に訴ふ」と題する声明を発表し、戦後の日本共産党再建に参加していきます。

人生年表 志賀義雄さんの歩み
1901年1月12日
福岡県門司市で生まれる
旧姓は川本
1906年
母方の祖父・志賀家の養子となる
志賀姓を名乗る
1913年
山口県萩町へ移る
山口県立萩中学校に進学
1923年
日本共産党に入党
東京帝国大学在学中
1925年
東京帝国大学文学部社会学科を卒業
1927年
日本共産党中央常任委員となる
1928年3月
三・一五事件で検挙される
以後、戦後まで長期拘禁
1945年10月10日
政治犯釈放により出獄
徳田球一とともに政治活動を再開
1946年4月10日
第22回衆議院議員総選挙で初当選
大阪府第1区
1947年4月25日
第23回衆議院議員総選挙で落選
1949年1月23日
第24回衆議院議員総選挙で当選
国政へ復帰
1950年6月
GHQによる公職追放で議員資格を失う
1955年2月27日
第27回衆議院議員総選挙で当選
約5年ぶりに国会へ復帰
1964年5月15日
部分的核実験停止条約の承認に賛成投票
日本共産党の反対方針と異なる投票
1964年5月21日
日本共産党から除名される
1964年
「日本のこえ」を中心とする政治活動を開始
1967年1月29日
第31回衆議院議員総選挙で落選
大阪府第6区から出馬
1977年
「日本のこえ」が「平和と社会主義」へ改称
議長を務める
1989年3月6日
死去

志賀義雄の経歴|出獄から国政へ|1946年の初当選と戦後の党再建

出獄から半年後の1946年4月、志賀は第22回衆議院議員総選挙に大阪府第1区から日本共産党公認で立候補しました。

42,121票を得て初当選し、戦後日本の国会で議席を得た最初期の共産党議員の一人となりました。

1947年の総選挙では議席を失いますが、1949年の第24回総選挙では大阪府第1区トップの80,933票で再び当選しました。この時期には党の中央委員であり、「アカハタ」主筆としても活動していました。

国会では政府の権限、憲法上の手続、外交処理などを取り上げています。1949年5月、阿波丸事件をめぐる日本側請求権放棄の問題では、政府の処理について国会で質問しました。

その決議及びそれに基く報告について憲法上重大な疑義があります

出典:国会会議録検索システム「第5回国会 衆議院本会議 第31号」(1949年5月17日)

戦後の党再建と選挙活動だけでなく、国会の手続や政府の権限を具体的な案件から追及する議員活動が始まっていました。

1950年の公職追放と地下活動|1955年に国会へ戻る

1949年に議席を取り戻した翌年、志賀は再び国会を離れることになります。1950年6月、GHQは日本共産党中央委員を公職から排除するよう求め、志賀も対象となりました。

衆議院議員の地位を失った後は、公然とした政治活動から離れました。萩博物館の人物資料では、この時期に約4年半の地下活動を送ったとされています。

再び総選挙へ出たのは1955年です。第27回衆議院議員総選挙の大阪府第1区で50,056票を得て、約5年ぶりに衆議院へ復帰しました。

その後、1958年、1960年、1963年と同じ大阪府第1区で連続当選します。戦後最初の当選と1949年の当選を合わせ、衆議院議員としての当選は通算6回になりました。

選挙歴 志賀義雄の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第22回衆議院議員総選挙
定数:7 比例復活:なし
初当選。大阪府公式記録の職業欄は「雑誌記者」。
大阪府 第1区 日本共産党 当選 42121 4位
第23回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
大阪府公式記録の職業欄は「著述業」。
大阪府 第1区 日本共産党 落選 27762 5位
第24回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
国政へ復帰。大阪府公式記録の職業欄は「日本共産党中央委員/アカハタ主筆」。
大阪府 第1区 日本共産党 当選 80933 1位
第27回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
公職追放後、国会へ復帰。
大阪府 第1区 日本共産党 当選 50056 3位
第28回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
再選。
大阪府 第1区 日本共産党 当選 58824 4位
第29回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
再選。
大阪府 第1区 日本共産党 当選 84170 4位
第30回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
大阪府公式記録の職業欄は「日本共産党中央委員会幹部会員」。
大阪府 第1区 日本共産党 当選 102957 2位
第31回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:なし
旧大阪府第1区の分区後、大阪府第6区から出馬。大阪府公式記録でも党派は「日本共産党(日本のこえ)」と記載。
大阪府 第6区 日本共産党(日本のこえ) 落選 38503 5位

法務委員会で扱った人権、捜査、住宅の問題

国会復帰後の志賀の発言を追うと、法務委員会で人権、警察・検察、刑事法、拘禁、住宅をめぐる問題を繰り返し取り上げていたことが分かります。

事故被害者への損害賠償を質問

1955年5月には、米軍トラックと列車との衝突事故をめぐり、国鉄の物的損害だけでなく乗客の被害が賠償請求の対象になっているのかを運輸当局へ質問しました。

負傷を受けた者に対する損害賠償は新聞には出ていなかった。

出典:国会会議録検索システム「第22回国会 衆議院法務委員会 第10号」(1955年5月20日)

同じ日の委員会では小菅刑務所を視察した経験にも触れ、収容者への処遇について改善を求めています。

政治人生の転機 志賀義雄の政治人生の転機
01
1928年3月
三・一五事件で検挙
日本共産党への一斉検挙で逮捕され、その後、戦後まで18年間に及ぶ拘禁生活に入りました。
なぜ転機なのか 20代後半から終戦まで政治活動の自由を失い、人生の大きな部分を獄中で過ごすことになったため。
02
1945年10月10日
18年の拘禁を終えて出獄
GHQの民権自由制限撤廃指令を受け、徳田球一らとともに釈放され、同日から政治活動を再開しました。
なぜ転機なのか 長期拘禁から戦後の政党再建と国政進出へ、活動環境が根本的に変わったため。
03
1950年6月
GHQの公職追放で議席を失う
日本共産党中央委員を対象としたGHQの公職追放によって衆議院議員の地位を失い、その後地下活動に入りました。
なぜ転機なのか 1949年に取り戻した国会議席を失い、公然とした議会活動から再び離れることになったため。
04
1964年5月
部分的核実験停止条約への賛成投票と党除名
5月15日の衆議院本会議で条約承認に賛成票を投じ、同月21日に日本共産党から除名されました。
なぜ転機なのか 長年中枢で活動した日本共産党を離れ、のちの「日本のこえ」を軸とする別の政治活動へ移ったため。

志賀義雄の政策・政治姿勢|警察活動と人権

1959年2月の法務委員会では、大阪市平野警察署をめぐって報道された問題を取り上げ、人権擁護当局や検察の対応を質問しました。

なおさら国内の日本人の人権ということも同様に考えられなければいけないのであります

出典:国会会議録検索システム「第31回国会 衆議院法務委員会 第5号」(1959年2月13日)

捜査機関による情報収集や職務質問のあり方は、その後の委員会でも志賀が扱うテーマの一つになりました。

不動産侵奪罪と住宅問題

1960年には刑法へ不動産侵奪罪を設ける改正案に反対しました。営利目的の不法占拠を処罰する必要性とは別に、住宅や土地が不足する中で生活困窮者に適用が広がることを問題にしました。

土地と住宅の欠乏に悩む善良な人々を不法占拠を理由に苦しめる結果になるだけです。

出典:国会会議録検索システム「第34回国会 衆議院法務委員会 第22号」(1960年4月15日)

この討論では自身の大阪の選挙区にある住宅事情にも触れています。国政上の刑法改正を、大阪の住居問題と結び付けて論じた発言でした。

職場の所持品検査を人権問題として取り上げる

1963年から1964年にかけては、バスや電車の従業員に対する服装・所持品検査を法務委員会で追及しました。日本弁護士連合会人権擁護委員会の調査や、神戸市交通局で起きた事案を材料に、法務当局へ対応を求めています。

刑事手続で身体を検査する場合に厳しい要件が置かれているのに、職場規則による検査が広く行われることとの関係を問い続けました。

志賀義雄氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

憲法と政府権限

人権擁護と警察・職場検査

このテーマの関連発言をさらに見る 1件
衆議院 法務委員会

バス・電車従業員への身体検査、服装検査、所持品検査を人権擁護の観点から取り上げ、法務当局に基準と対応を問いただしました。

国会会議録で発言全文を見る

住宅問題と不動産侵奪罪

予防拘禁と裁判手続

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

1964年の部分的核実験停止条約|賛成投票と日本共産党からの除名

長く日本共産党中央で活動してきた志賀の立場を大きく変えたのが、1964年の部分的核実験停止条約をめぐる対立でした。

同年5月15日、衆議院本会議では「大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」の承認が記名投票に付されました。

投票結果は319票のうち賛成315、反対4。日本共産党は条約承認に反対していましたが、志賀は党の方針と異なり賛成票を投じました。国会会議録の賛成者一覧にも「志賀義雄」と記録されています。

反対票を投じた4人は、加藤進、川上貫一、谷口善太郎、林百郎でした。志賀の投票は、単に採決結果を左右した一票というより、長く所属してきた党との関係を変える出来事になります。

日本共産党は5月21日の中央委員会総会で、志賀と参議院議員の鈴木市蔵を除名しました。党側の後年の記録では、部分核停条約だけでなく当時のソ連共産党との関係を含む党内対立の中でこの処分を位置付けています。

戦前から関わり、戦後の再建にも参加した日本共産党を離れたことで、志賀の政治活動は別の段階へ入りました。

「日本のこえ」での活動と、議員として最後に語った拘禁体験

除名後、志賀は鈴木市蔵らと新たな政治活動を始め、「日本のこえ」を中心とする組織を形成しました。一方、1963年総選挙で得ていた衆議院議席はそのまま保持し、国会活動を続けています。

この時期にも法務委員会での発言は続きました。1966年5月、裁判所の手続をめぐる審議では、自身が戦前に刑期後も予防拘禁された経験を国会で語っています。

本来の刑が終わっておるのに予防拘禁所にまたぞろ入れられたことがありました。

出典:国会会議録検索システム「第51回国会 衆議院法務委員会 第33号」(1966年5月6日)

20代で始まった拘禁の経験が、議員生活の最終期にも法制度を論じる際の具体例として現れていました。

1967年の落選と「平和と社会主義」まで

1967年1月の第31回衆議院議員総選挙では、選挙区再編後の大阪府第6区から立候補しました。大阪府の公式候補者記録に記された党派は「日本共産党(日本のこえ)」です。

得票は38,503票で5位となり、定数3の議席には届きませんでした。この落選によって、1946年から断続的に続いた衆議院議員としての活動は終わりました。

その後も「日本のこえ」を基盤に政治・言論活動を続けました。同組織は後に名称を改め、1977年には「平和と社会主義」となり、志賀は議長を務めました。

戦前からの経験についても執筆を続け、『獄中十八年』のほか、『国家論』『日本帝国主義について』『日本共産党史覚え書』などの著作を残しています。

1989年3月6日に死去しました。戦前の非合法政党活動、18年間の拘禁、敗戦後の党再建、衆議院議員6期、そして長年所属した党から離れた後の活動まで、昭和の政治史の複数の局面にまたがる生涯でした。

関連書籍
志賀義雄さんの著書・関連書籍
獄中十八年
書籍
獄中十八年
著者:徳田 球一/志賀 義雄 / 出版社:講談社 / 発売日:2017年12月10日頃
志賀義雄選集 1
書籍
志賀義雄選集 1
著者:志賀 義雄 / 出版社:五月書房 / 発売日:1991年10月
志賀義雄選集 2
書籍
志賀義雄選集 2
出版社:五月書房 / 発売日:1992年01月

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参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
その他の参考資料

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