原敬の経歴・学歴と生い立ち|新聞記者・外交官から「平民宰相」と呼ばれた首相まで

原敬
ひと目でわかるプロフィール 原敬
はら たかし
出身地
岩手県岩手郡本宮村(現・盛岡市本宮)
初当選
1902年(第7回衆議院議員総選挙)
最終学歴
司法省法学校中途退学
主な前職
会社経営者、官僚・国家公務員、新聞記者・ジャーナリスト
政界入り
民間企業から
生年月日 1856年3月15日
没年月日 1921年11月4日

原敬は、新聞記者、外交官・官僚、新聞社経営者を経て衆議院議員となり、立憲政友会を率いて第19代内閣総理大臣まで上り詰めた政治家です。爵位を持たない首相だったことから「平民宰相」と呼ばれ、1918年には日本で初めての本格的な政党内閣を組織しました。

その歩みは、最初から政治家を目指した一本道ではありません。盛岡で生まれ、司法官を養成する学校を離れ、新聞記者となり、外交実務を経験し、新聞社の経営にも携わりました。この記事では、そうした政界入り以前の経歴から、首相在任中の1921年に東京駅で生涯を閉じるまでをたどります。

原敬を理解する3つのポイント
  1. 盛岡藩士の家に生まれ、司法省法学校を離れた後、新聞記者・外交官・官僚・新聞社社長という幅広い仕事を経験した
  2. 1902年の衆議院初当選から8回連続で当選し、内務大臣を重ねて1914年に立憲政友会総裁となった
  3. 1918年に衆議院に議席を持つ首相として本格的政党内閣を組織し、首相在職中の1921年に東京駅で暗殺された

原敬の生い立ち|盛岡藩士の家に生まれた原敬

原敬は1856年3月15日、当時の岩手郡本宮村、現在の盛岡市本宮で生まれました。父は盛岡藩士の原直治、母は律。次男でした。

原家は盛岡藩に仕えた家で、祖父の直記も藩政に携わり、新田開発や用水事業に関わった人物でした。原敬が後年「平民宰相」と呼ばれるようになる一方、生まれた家そのものは旧藩士の家でした。

少年期を過ごした生家は現在も盛岡市本宮に残っています。原敬記念館に隣接する建物で、原は15歳までこの家で暮らしました。

明治維新によって社会の仕組みが大きく変化する時代に少年期を送り、やがて盛岡を離れて上京します。後に首相となる人物ですが、青年期の進路は政治家ではなく、まず学問と職業を求めるところから始まりました。

原敬の学歴|司法省法学校での学生生活と放校処分

学歴一覧原敬の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
私塾・学校藩校・私塾などで学ぶ漢学・洋学旧制度・比較不可明治初期の教育制度
法学校司法省法学校法律旧制度・比較不可中途退学

※原敬の学歴は明治初期の教育制度によるもので、現在の高校・大学偏差値へ換算していません。

1876年、20歳の原は司法省法学校へ入学しました。司法官を養成するための8年制の官費学校で、現在の東京大学法学部につながる教育機関です。

ところが、卒業まで在籍したわけではありません。3年目、寮の食事改善を求める学生運動に関わり、放校処分を受けました。

官費で学ぶ司法官への道は、ここで途切れます。盛岡市の原敬記念館は、放校された原が同じ境遇の学生たちと励まし合いながら自立の道を探し、その後、新聞記者になった経緯を紹介しています。

原の経歴を見ると、この時期以降は一つの職域だけにとどまりません。言論、外交、中央官庁、企業経営へと仕事の領域を広げ、その経験を持って政党政治へ入っていきます。

原敬の経歴|新聞記者から外交官・官僚へ

司法省法学校を離れた後、原は『郵便報知新聞』や『大東日報』などで記者を務めました。国立国会図書館の人物紹介でも、原の職業として「ジャーナリスト」が挙げられています。

その後、外務省への入省をきっかけに官界へ転じました。外交官として天津領事を務め、中央では外務省通商局長、さらに外務次官まで進みます。

この官僚時代に深く関わった人物の一人が陸奥宗光です。原は農商務省で大臣秘書官を務めた時期にも陸奥の知遇を得ており、陸奥が外相を務める時代には外務省の実務を担いました。

新聞を通じて社会を見る仕事と、政府内部から行政・外交を動かす仕事の両方を経験したことが、原の政界入り以前の経歴の大きな特徴です。

大阪毎日新聞社長を経て立憲政友会へ

1897年9月、原は官界を退きました。翌1898年には大阪毎日新聞社の第3代社長となり、1900年まで在社しています。

かつて新聞記者だった原が、今度は新聞社を経営する立場に就いたことになります。官僚から直接選挙政治へ飛び込んだのではなく、一度言論・企業経営の世界へ戻っている点は、その後の歩みを見るうえで見落としにくい経歴です。

1900年、伊藤博文を中心として立憲政友会が結成されると原も参加しました。そして1902年、第7回衆議院議員総選挙に盛岡から立候補し、衆議院議員へ初当選します。

46歳になる年の国政進出でした。国立国会図書館によれば、その後も当選を重ね、衆議院議員として8回連続で議席を得ています。

内務大臣として地方制度改革に取り組む

1906年、第1次西園寺公望内閣が成立すると、原は内務大臣に就任しました。内務省は地方行政、警察、土木など広い分野を所管していた官庁です。

この時期、原が繰り返し取り組んだテーマの一つが郡制の廃止でした。当時の地方制度には府県・郡・市町村という層があり、原は郡という自治制度を残す必要はないとの立場を示しています。

「郡制ヲ存在スルノ必要ヲ認メマセヌ」

出典:帝国議会会議録「第23回帝国議会 貴族院本会議 第10号」(1907年3月6日)

郡制廃止法案はこの段階では成立に至りませんでしたが、原は後年まで同じ課題に取り組みました。首相在任中の1921年4月、「郡制廃止ニ関スル法律」が公布され、法律第1条には「郡制ハ之ヲ廢止ス」と明記されました。

また、原は制度を固定したものと見るのではなく、行政の慣例を時代に合わせて改める必要性も国会で述べています。

「時勢ノ進歩ニ伴ウテ、總テノ事業、官廳ノ規則慣例、皆改良ヲ加ヘナケレバナラヌ」

出典:帝国議会会議録「第22回帝国議会 貴族院本会議」(1906年2月10日)

内相を重ね、立憲政友会総裁へ

原は第1次西園寺内閣だけでなく、第2次西園寺内閣や第1次山本権兵衛内閣でも内務大臣を務めました。第2次西園寺内閣では鉄道院総裁も兼ねています。

一方、政党内では西園寺公望総裁を支える中心人物となっていきます。1914年、立憲政友会第3代総裁に就任しました。

この時点で原は、地方行政を担当した閣僚経験、衆議院での議席、政党運営という三つの政治経験を持つ立場になっていました。

1915年、1917年の総選挙でも盛岡から当選を続けます。政友会そのものは選挙ごとに置かれた状況が変わりましたが、原個人は1902年以来、議席を失いませんでした。

1918年、「平民宰相」と呼ばれた首相へ

1918年、米価高騰を背景に全国へ広がった米騒動の後、寺内正毅内閣が退陣します。同年9月29日、原は第19代内閣総理大臣に就任しました。

衆議院に議席を持つ政党党首が首相となり、陸海軍・外務を除く主要閣僚を立憲政友会系で構成した原内閣は、日本初の本格的政党内閣と位置づけられています。

原は華族の爵位を持っていませんでした。このため「平民宰相」という呼称が広まりました。首相官邸の記録では、就任時62歳。1921年11月4日まで1,133日間、首相を務めています。

「平民宰相」という呼び名だけで原の政治を捉えると、政権で何を進めたのかが見えにくくなります。原内閣では教育、交通、産業・経済、国防などを柱とする積極的な政策が進められました。

人生年表 原敬さんの歩み
1856年3月15日
岩手郡本宮村に生まれる
盛岡藩士・原直治と律の次男
1876年
司法省法学校へ入学
20歳で官費の司法官養成学校へ進む
1879年
司法省法学校を離れる
寮の食事改善を求める学生運動に関わり放校処分
1879年以降
新聞記者として活動
郵便報知新聞、大東日報などに勤務
1880年代
官界へ転じる
外務省を中心に外交・行政実務を経験
1890年代
外務次官などを歴任
陸奥宗光の下でも勤務
1897年
官界を退く
1898年
大阪毎日新聞社長となる
1900年まで第3代社長を務める
1900年
立憲政友会に参加
伊藤博文を中心に結成された政党へ加わる
1902年
衆議院議員に初当選
以後8回連続当選
1906年
第1次西園寺内閣で内務大臣に就任
1911年
内務大臣兼鉄道院総裁として活動
1914年
立憲政友会第3代総裁に就任
1918年9月29日
第19代内閣総理大臣に就任
初の本格的政党内閣を組織
1919年
衆議院議員選挙法を改正
納税資格を直接国税10円から3円へ緩和
1919年
パリ講和会議に代表団を派遣
西園寺公望・牧野伸顕らが全権委員
1921年4月
郡制廃止に関する法律を公布
長年主張してきた郡制廃止が法制化
1921年11月4日
東京駅で暗殺され死去
首相在職中、京都へ向かう途中に襲撃された

原敬の政策・政治姿勢|高等教育の拡張と交通網の整備

原内閣が掲げた政策の一つが教育の拡張です。1918年には大学令が公布され、高等学校令も改められました。これにより官立だけではなく、公立・私立の大学設置にも道が開かれ、高等教育機関の拡張が進みます。

交通分野では鉄道をはじめとした交通・通信基盤の拡充を進めました。原自身、第2次西園寺内閣で鉄道院総裁を兼ねた経験を持っていました。

産業・通商の振興、国防の充実も原内閣が掲げた政策群に含まれます。第一次世界大戦後の経済・社会環境が変化する中で、政府支出を伴う積極的な施策を進めた政権でした。

原内閣の「教育・交通・産業・国防」は、それぞれ独立した単発政策ではなく、政友会政権が掲げた政策群として展開されました。

選挙権を拡大する一方、普通選挙には慎重だった

原内閣期の選挙制度では、1919年の衆議院議員選挙法改正が大きな出来事でした。それまで選挙権に必要だった直接国税の納税要件は10円以上から3円以上へ引き下げられ、有権者の範囲が広がりました。選挙区制度も原則として小選挙区制へ改められています。

ただし、これは男子普通選挙の実現ではありません。納税額による資格制限そのものは残りました。原は当時、納税要件をなくす普通選挙の即時導入には賛成していませんでした。

「我輩ハ決シテ之ニ贊成ヲ致シタコトハ無論ナイ」

出典:帝国議会会議録「第43回帝国議会 衆議院本会議 第4号」(1920年7月5日)

第一次世界大戦後には普通選挙を求める運動が拡大していましたが、原内閣は段階的な選挙権拡大を選びました。25歳以上の男子普通選挙が法律として成立するのは、原の死後となる1925年です。

選挙歴 原敬の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第7回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
衆議院議員初当選
盛岡市区 立憲政友会 当選 175
第8回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
国立国会図書館の人物略歴から連続当選を確認。個人得票数は今回の上位資料で確定できず
盛岡市区 立憲政友会 当選
第9回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
3回目の当選
盛岡市区 立憲政友会 当選 212 1
第10回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
確認した二次選挙資料で無投票と得票数表記が併存するため、得票数は確定値として登録しない
盛岡市区 立憲政友会 当選
第11回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
盛岡市区 立憲政友会 当選 521 1
第12回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
盛岡市区 立憲政友会 当選 606 1
第13回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
盛岡市区 立憲政友会 当選 578 1
第14回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
首相在任中の総選挙。原敬にとって最後の衆議院議員選挙
岩手 1区 立憲政友会 当選 1254 1

原敬氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

行政制度の改良

郡制廃止

普通選挙への立場

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

パリ講和会議と第一次世界大戦後の外交

原内閣の時代は、第一次世界大戦後の国際秩序が形づくられていく時期でもありました。1919年1月にパリ講和会議が始まると、日本政府は西園寺公望、牧野伸顕らを全権委員として派遣しました。

同年6月、日本はヴェルサイユ条約に調印しました。条約によって日本は山東半島の旧ドイツ権益を継承し、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島について委任統治権を得ます。

一方、講和会議では日本代表団が人種差別撤廃に関する提案を行うなど、後の国際関係にも長く影響する問題が扱われました。原内閣の外交は、国内の政党政治だけでなく、大戦後の国際秩序形成と同時進行していました。

1920年総選挙でも当選、8回連続の議席

1920年5月には第14回衆議院議員総選挙が行われました。原自身も首相のまま岩手1区から立候補し、再び当選します。

これが原にとって最後の国政選挙となりました。1902年の初当選から数えると、衆議院議員として8回連続当選でした。

首相になっても貴族院へ移るのではなく、衆議院議員として議席を持ち続けた点は原内閣の性格と重なります。国立国会図書館は原を「衆議院に議席を持つ最初の総理大臣」と紹介しています。

長年主張した郡制廃止が首相時代に実現

内務大臣だった1900年代から取り組んでいた郡制廃止は、首相在任中に法制化されました。1921年4月11日公布の法律第63号「郡制廃止ニ関スル法律」です。

1907年の国会で郡制を存続させる必要はないと答弁してから十数年を経ての成立でした。同じ課題に、内務大臣時代と首相時代の双方で関わった事例です。

法律は郡制そのものの廃止だけでなく、それまで郡や郡組合が持っていた財産、事業、権利義務などをどのように処理するかも定めました。

東京駅で途切れた首相としての歩み

1921年11月4日、原は立憲政友会近畿大会へ出席するため京都へ向かおうとしていました。東京駅に到着したところで、大塚駅の転轍手だった中岡艮一に襲撃されます。

原はその日のうちに死去しました。65歳でした。 首相就任から3年余り、1,133日の在職期間の末でした。

原が残した自筆日記は明治8年から大正10年まで83冊に及び、暗殺直前までの絶筆メモとともに盛岡市へ寄贈されています。政治家としての日記には、面談者との会話や閣議の内容も記録され、現在は岩手県指定有形文化財として原敬記念館に収蔵されています。国立国会図書館の憲政資料室は、原がこの日記を「余の遺物中この日記は最も大切なるもの」と位置づけて保存を望んでいたことを紹介しています。原は日々の出来事を手帳などに記し、就寝前に要点をまとめ、さらに週末に清書する形で政治活動を残していました。

司法省法学校を離れた青年は、新聞記者、外交官、中央官僚、新聞社社長を経て選挙政治へ入り、衆議院議員として政党を率い、最後までその議席を持ったまま首相を務めました。原敬の生涯には、明治の官僚政治から大正期の政党内閣へと移る時代そのものが重なっています。

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政治人生の転機 原敬の政治人生の転機
01
1879年
司法省法学校を離れ、新聞記者の道へ
司法省法学校で寮生活改善を求める学生運動に関わり、放校処分となった後、新聞記者として自立の道を進んだ。
なぜ転機なのか 司法官を目指す進路から、言論界を経て官界へ進む人生へ方向が変わったため。
02
1900年~1902年
立憲政友会参加と衆議院初当選
官僚・新聞社経営を経て立憲政友会に参加し、1902年に衆議院議員へ初当選した。
なぜ転機なのか 行政実務や新聞経営を担う立場から、選挙で議席を得る政党政治家へ移ったため。
03
1914年
立憲政友会第3代総裁に就任
西園寺公望の後を受けて立憲政友会総裁となった。
なぜ転機なのか 政党幹部から党全体を率いる立場となり、後の政権担当へつながる政治的地位を得たため。
04
1918年9月29日
第19代内閣総理大臣に就任
衆議院に議席を持つ立憲政友会総裁として内閣を組織した。
なぜ転機なのか 初の本格的政党内閣を率いる首相となり、原敬の政治人生が政権運営の段階へ移ったため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
報道・インタビュー
その他の参考資料

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