井上馨の経歴・学歴と生い立ち|長州ファイブから初代外務大臣、条約改正と元老まで

井上馨
ひと目でわかるプロフィール 井上馨
いのうえ かおる
出身地
山口県山口市湯田温泉(旧・周防国吉敷郡湯田村)
最終学歴
藩校明倫館・University College London留学
主な前職
会社経営者
生年月日 1836年1月16日
没年月日 1915年9月1日

井上馨の生い立ち|湯田村に生まれ、藩校明倫館で学ぶ

井上馨は天保6年11月28日、現在の暦では1836年1月16日、周防国吉敷郡湯田村に生まれました。現在の山口市湯田温泉にあたります。父は萩藩の郷士でした。

若い頃の名は聞多です。志道家の養子となって「志道聞多」を名乗った時期があり、その後、井上姓に戻りました。

学んだのは萩藩の藩校・明倫館です。幕末には高杉晋作らと尊王攘夷運動に加わり、長州藩を取り巻く国内外の緊張の中で活動するようになりました。

長州ファイブの一人として英国へ

1863年、井上聞多は伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸造とともに英国へ向かいました。後に「長州ファイブ」と呼ばれる5人です。

海外渡航が禁じられていた時代の密航でした。長州藩が当初用意していた資金では足りず、井上は江戸・麻布の藩邸にあった資金を担保に、五千両を借りる手配まで行っています。

これも不様よければ、生きたる器械を買い候よう思し召され、御緩容願い奉り候

出典:萩市観光協会「長州ファイブの志(2)」(公開日記載なし)

5人は横浜から上海へ渡り、そこから帆船でロンドンを目指しました。井上と伊藤は船上で甲板員として働き、4か月余りの航海を経て1863年11月に英国へ到着します。

ロンドンではUniversity College Londonの化学者アレクサンダー・ウィリアムソン夫妻の世話を受け、英国の学問や産業に触れました。しかし翌1864年、長州藩と四国連合艦隊の衝突が迫っていると知ると、井上と伊藤は他の3人より先に帰国します。

帰国後は四国連合艦隊との戦いを避けようと藩内で動き、下関戦争後の和平にも関わりました。

井上馨の学歴|明倫館からロンドン大学留学へ

井上馨は、幕末の長州藩士「井上聞多」から明治政府の中枢へ進んだ政治家です。新しい国家制度が形を整える前から財政、造幣、外交、産業行政に携わり、政府を離れて民間事業に身を置いた時期もありました。

その生涯には、英国への密航留学、帰国直後の襲撃、明治政府での財政改革、条約改正交渉、朝鮮をめぐる外交、そして元老としての活動まで、幕末から大正初期へ続く政治の変化が重なっています。

井上馨氏を理解する3つのポイント
  1. 長州藩士として海外へ渡り、欧州の産業や制度を実地で見た世代の一人です。
  2. 維新後は財政・造幣・外交・産業行政を横断し、一時は民間の貿易事業にも携わりました。
  3. 閣僚を離れた後も元老として国政に関与し、財政・国防・政党政治について意見を示しました。

袖解橋の変――50針を超える治療で生還

帰国した長州藩では、幕府への対応をめぐって藩内の対立が激しくなっていました。井上は、形式上は恭順しながら軍備を整える「武備恭順」を主張します。

1864年9月25日夜、湯田へ戻る途中で反対派の藩士に襲われ、背中や頭に深い傷を負いました。「袖解橋の変」と呼ばれる事件です。

自宅へ運ばれた時には兄へ介錯を頼むほどの状態でしたが、医師の所郁太郎が治療にあたり、50針を超える大手術を受けて生還しました。

その後は高杉晋作らの側で藩内政治に関わり、幕末の軍事・政治活動を経て明治維新を迎えます。

造幣と財政――明治政府で制度づくりに入る

1868年に新政府の参与職や外国事務掛などに就き、翌1869年には造幣頭となりました。1871年には大蔵大輔へ進み、明治政府の財政実務を担う立場になります。

1872年に行われた第1次製造貨幣大試験では、大蔵大輔兼造幣頭として執行官を務めました。新しい貨幣制度の下で、製造した貨幣の量目や品位を検査する仕組みが始まった時期です。

一方、政府各省が近代化のため多額の支出を求める中、井上と渋沢栄一は歳出削減を主張しました。その方針が受け入れられず、1873年5月3日にそろって大蔵省を辞職します。

今全国歳入の総額を概算すれば、四千万円を得るに過ぎず。

出典:財務省「税制メールマガジン第187号」(2025年6月13日)

これは二人が辞職時に提出し、新聞にも公表した「財政改革に関する奏議」の一節です。政府の収支と負債を具体的な数字で示したため、井上は政府機密を明らかにしたとして罰金を科されました。

井上馨の経歴|政府を離れて先収会社を設立

大蔵省を離れた井上は1874年、益田孝や藤田伝三郎と先収会社を設立しました。米、生糸、茶などを輸出し、銃器や肥料などを外国商館経由で輸入する貿易会社でした。

1876年7月、先収会社は三井の三井国産方と合併し、三井物産が発足します。政府高官として知られる井上には、政府を離れて実際に貿易会社の経営に関わった時期がありました。

その一方で1875年には元老院議官として公職へ戻り、政治・外交の仕事を再び担っていきます。

日朝修好条規から外務卿へ

1875年末、井上は朝鮮へ派遣される特命全権副弁理大臣となりました。翌1876年には日朝修好条規の締結に関与します。

日朝修好条規は朝鮮を独立国として扱う一方、領事裁判権などで朝鮮側に不利な内容を含む条約でした。井上の外交経歴は、明治日本が朝鮮との関係を大きく変えていく過程にも重なります。

1876年から再び欧州へ派遣された後、1878年に参議兼工部卿となり、1879年9月10日には外務卿へ就任しました。

鹿鳴館と条約改正――初代外務大臣としての交渉

外務卿在任中の1883年、東京に鹿鳴館が開館しました。西洋式の社交施設を外交に利用した欧化政策は、井上の外務行政を象徴する出来事として知られています。

1885年12月22日に内閣制度が始まると、第1次伊藤内閣の初代外務大臣となりました。

最大の外交課題は、幕末以来の不平等条約の改正でした。1886年5月、井上と外務次官の青木周蔵は各国代表を集めて条約改正会議を開催します。

交渉では、外国人の内地居住を認める一方で領事裁判権を撤廃する方向が話し合われました。1887年には、日本が西洋を模範とする法典を整備し、外国人が関係する訴訟に外国籍の法律家を任用することなどを条件とする案がまとまります。

この条件に対して、日本の司法権・立法権を損なうとの国内批判が強まり、調印には至りませんでした。井上は同年9月に外務大臣を辞任します。

条約改正だけが外相時代の仕事ではありません。1886年1月にはハワイ側のロバート・アーウィンと日本・ハワイ渡航条約に調印し、政府の斡旋によるハワイへの移民制度にも関わりました。

農商務・内務・大蔵――複数の閣僚職を歩く

外相辞任後も政治の第一線から離れたわけではありません。1888年には黒田内閣の農商務大臣、1892年には第2次伊藤内閣の内務大臣となりました。

内務大臣在任中の1892年12月、貴族院で「権限争議裁判法案」の趣旨を説明しています。司法裁判所、行政官庁、行政裁判所が独立した機関となった結果、互いの管轄をめぐる争いを処理する仕組みが必要だと述べました。

司法裁判、行政機關互ニ覊束セラレヌモノニナッタル所ノ結果デアリマシテ

出典:第4回帝国議会 貴族院本会議第2号(公開日記載なし)

日清戦争期の朝鮮駐箚公使

1894年10月には朝鮮駐箚特命全権公使となり、大鳥圭介の後任として朝鮮へ赴きました。日清戦争開戦前後、日本軍は朝鮮王宮を占拠し、金弘集を中心とする政権の内政改革へ日本が深く関与していた時期です。

井上の着任後は朝鮮政府で日本人顧問の採用が進み、1895年3月には井上の建議を受けて日本が朝鮮へ300万円の借款を供与しました。日本による朝鮮の政治・財政への関与が強まる局面で、公使を務めたことになります。

第3次伊藤内閣で大蔵大臣へ

1898年には第3次伊藤内閣の大蔵大臣に就任しました。同年5月、衆議院からの財政・経済に関する質問への答弁書では、財政の範囲内で生産事業を選び、輸出入に関わる事業を支援する考えを示しています。

政府ハ財政ノ許ス範圍內ニ於テ償金ノ餘裕ヲ以テ生產事業中其確實ナルモノ

出典:第12回帝国議会 衆議院本会議第6号(公開日記載なし)

元老となり、首相選定にも関わる

1904年2月、井上は元老に加わりました。元老は憲法や法律に規定された官職ではありませんでしたが、天皇の諮問に応じて首相候補の推薦や重要な国務・外交問題に関与した存在です。

1907年には侯爵となり、貴族院議員にも就きました。侯爵の貴族院議員は選挙で議席を争う仕組みではなく、世襲・終身の議員でした。

1914年、第2次大隈重信内閣が成立する際にも井上は動いています。西園寺公望が首相候補を辞退する中、元老会議で大隈を推す意見を示し、組閣直前には大隈本人と長時間会談しました。

翌1915年9月1日、井上は死去しました。国立国会図書館に残る井上馨関係文書は4,800点を超え、外交、財政、銀行、鉄道、鉱山、朝鮮関係など幅広い分野に及んでいます。

人生年表 井上馨さんの歩み
1836年1月16日
周防国吉敷郡湯田村に生まれる
天保6年11月28日
1860年3月
長州藩主の小姓役となる
1863年5月
長州ファイブの一員として英国へ密航留学
伊藤博文ら4人と渡航
1864年6月
英国留学から帰国
四国連合艦隊による下関攻撃を前に伊藤博文と帰国
1864年9月25日
袖解橋付近で襲撃され重傷を負う
所郁太郎の治療で生還
1868年
新政府の参与職などに就く
外国事務掛、外国事務局判事などを歴任
1869年8月
造幣頭に就任
1871年7月
大蔵大輔に就任
1873年5月3日
大蔵省を辞職
渋沢栄一と財政改革に関する奏議を提出
1874年1月
先収会社を設立
1875年12月
元老院議官に就任
同月から朝鮮差遣の特命全権副弁理大臣
1878年7月
参議兼工部卿に就任
1879年9月10日
外務卿に就任
1885年12月22日
初代外務大臣に就任
第1次伊藤内閣
1887年9月
外務大臣を辞任
条約改正交渉への国内反発が強まる
1888年7月
黒田内閣の農商務大臣に就任
1892年8月
第2次伊藤内閣の内務大臣に就任
1894年10月
朝鮮駐箚特命全権公使に就任
1898年1月
第3次伊藤内閣の大蔵大臣に就任
1904年2月
元老となる
1907年9月
侯爵となり貴族院議員に就任
侯爵議員として終身在任
1915年9月1日
死去

晩年に示した政策観――官業・財政・国防・人事

1914年の大隈重信との会見記録には、晩年の井上が政府と民間の役割をどう考えていたかが具体的に残っています。官営事業が民間企業と競争することを批判し、鉄道についても国がすべてを抱える必要はないと話しました。

本線だけは国有と為すも、枝線までも国有にする必要はない。

出典:国立国会図書館「井上侯・大隈伯会見要領筆記」(公開日記載なし)

同じ会見では、国防費だけを切り離して膨らませるのではなく、まず財政基盤を整え、外交方針、陸海軍、各省の政策を連動させる必要があるとの考えも示しました。

政党については厳しい批判を口にする一方、人材の登用では過去の所属や経緯だけで排除すべきではないとの発言も残しています。

役に立つ人は過去を顧みず之れを用ふべしだ。

出典:国立国会図書館「井上侯・大隈伯会見要領筆記」(公開日記載なし)

幕末に海外へ出た青年期から半世紀を経ても、財政と産業、外交と国防、政府と民間を相互に結び付けて論じていたことが、この晩年の会見記録から読み取れます。

井上馨氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

行政と司法の権限関係

財政・経済と生産事業支援

公共事業と民間事業者の活用

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

政治人生の転機 井上馨の政治人生の転機
01
1863年
長州ファイブとして英国へ渡航
伊藤博文らと長州藩を離れ、ロンドンへ渡りました。
なぜ転機なのか 幕末の政治活動から海外での学習へ進み、帰国後の近代化政策や外交へつながる経験を得た時期です。
02
1873年5月
大蔵省を辞職し政府を離れる
歳出抑制をめぐる政府内の対立の中で渋沢栄一とともに辞職し、翌年に先収会社を設立しました。
なぜ転機なのか 政府の財政実務から一度離れ、民間の貿易事業へ活動領域を移したためです。
03
1885年12月~1887年9月
初代外務大臣と条約改正交渉
第1次伊藤内閣で初代外務大臣となり、領事裁判権撤廃を目指す条約改正会議を主導しました。
なぜ転機なのか 交渉案への国内反発が強まり、1887年に外務大臣を辞任する結果となったためです。
04
1904年
元老として国政に関与
元老に加わり、閣僚を離れた後も首相選定や重要政策をめぐる協議に関与しました。
なぜ転機なのか 行政官・閣僚としてではなく、法的根拠を持たない元老という立場から国政へ影響を及ぼす段階に移ったためです。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
その他の参考資料

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