中曽根康弘の経歴・学歴と生い立ち|内務官僚から首相、戦後政治の総決算まで

中曽根康弘
ひと目でわかるプロフィール 中曽根康弘
なかそね やすひろ
出身地
群馬県高崎市
初当選
1947年(第23回衆議院議員総選挙)
最終学歴
東京帝国大学法学部政治学科
主な前職
官僚・国家公務員
政界入り
官僚から
生年月日 1918年5月27日
血液型 O型
没年月日 2019年11月29日

中曽根康弘氏は、戦前の内務官僚と海軍勤務を経験し、敗戦後の1947年から半世紀を超えて国会に在籍した政治家です。1980年代には内閣総理大臣として三つの内閣を率いました。

首相時代の行政改革や外交だけでなく、高崎で過ごした少年期、旧制高校と東京帝国大学、戦時下の仕事、20代で国政へ進んだ経緯から、その長い政治人生をたどります。

中曽根康弘氏を理解する3つのポイント
  1. 高崎で育ち、旧制高校・東京帝国大学を経て、官僚と海軍主計将校の両方を経験しました。
  2. 敗戦後に郷里へ戻って青年運動に取り組み、国政入り後は閣僚・自民党幹部を歴任しました。
  3. 首相として行財政改革と積極外交を進め、退任後も長期間にわたり国政と政策提言に関わりました。

中曽根康弘の生い立ち|高崎の材木商の家に生まれ、旧制高校から東京帝大へ

中曽根康弘氏は1918年5月27日、群馬県高崎市で、中曽根松五郎・ゆく夫妻の次男として生まれました。父の松五郎は材木業を営んでいました。

政治家になってから約60年後、行政管理庁長官として国有林行政を議論した国会でも、自身の家庭についてこんな言葉を残しています。

私も材木屋のせがれに生まれたものですから

出典:国会会議録検索システム「第93回国会 参議院 内閣委員会 第5号」(1980年11月6日)

中曽根康弘の学歴|旧制静岡高校から東京帝国大学法学部へ

学歴一覧中曽根康弘の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
旧制中学群馬県立高崎中学校―旧制度・比較不可旧制中学校
旧制高校静岡高等学校―旧制度・比較不可旧制高等学校
大学東京帝国大学法学部政治学科旧制度・現在の東京大学偏差値とは直接比較不可卒業

※中曽根康弘の学歴は旧制中学・旧制高校・東京帝国大学時代の制度によるため、現在の偏差値へ換算していません。

県立高崎中学校から旧制静岡高等学校へ進み、1938年3月に文科丙類を卒業しました。その後、東京帝国大学法学部政治学科へ進学します。

大学在学中の1940年10月には高等試験行政科に合格しました。翌1941年3月に東京帝国大学を卒業し、官僚として働く資格と進路を整えて社会へ出ています。

内務省と海軍、戦時下で二つの組織を経験

大学卒業後の1941年4月、東京府属となりましたが、同じ月に辞職し、海軍短期現役制度を通じて海軍主計中尉に任官しました。官僚として出発した直後に、戦時下の海軍へ身を移したことになります。

海軍経理学校で教育を受けた後、第2設営班主計長となりました。群馬県の事績資料では、その後フィリピンや台湾の戦地に赴いたことが記録されています。

1945年9月には海軍主計少佐。終戦後の同年10月に内務省へ戻り、大臣官房調査部などで勤務しました。その後は香川県の警務行政や警視庁の監察業務にも携わっています。

国立国会図書館が整理した官歴では、1947年1月に「依願免本官」。戦前から続いた官僚としての経歴は、ここで終わりました。

中曽根康弘の経歴|敗戦後の高崎から28歳で国会へ

敗戦後、中曽根氏は郷里の高崎を政治活動の足場としました。青年を集めた活動に取り組み、1949年には青雲塾を結成しています。

1947年4月の第23回衆議院議員総選挙では、28歳で群馬県第3区から立候補し初当選しました。所属は民主党でした。

首相就任直後の所信表明演説では、初当選時の東京を自らこう振り返っています。

瓦礫と闇市の間を縫って登院しました。

出典:外務省「第97回国会における中曽根内閣総理大臣所信表明演説」(1982年12月3日)

戦後初期には保守政党の再編が続き、中曽根氏も民主党、改進党、日本民主党と所属を移しました。1955年の保守合同後は自由民主党に所属し、以後の政治活動の中心を同党に置きます。

1953年7月から10月には米国へ出張し、ハーバード大学の夏期セミナーに参加しました。国内政治だけでなく、海外で学ぶ機会を持った時期でもあります。

科学技術、運輸、防衛、通産――閣僚と党幹部への道

国政入りから12年後の1959年6月、第2次岸内閣で科学技術庁長官となりました。41歳での初入閣です。

1967年には拓殖大学の学長・総長となり、同年11月には第2次佐藤内閣で運輸大臣に就任しました。大学運営と国政の双方に関わった時期です。

1970年1月には第3次佐藤内閣の防衛庁長官となりました。国会答弁では、自分が官僚出身であることより、選挙で選ばれた政治家としての立場を前面に出しています。

私は官僚じゃありませんし、民衆代表の政治家でありますから

出典:国会会議録検索システム「第63回国会 衆議院 内閣委員会 第15号」(1970年4月15日)

その後は自由民主党総務会長を経て、1972年に通商産業大臣兼科学技術庁長官となりました。第1次・第2次田中角栄内閣の時期に通商産業行政を担当し、1973年の石油危機とも向き合いました。

1974年12月には自由民主党幹事長、1977年には再び総務会長に就任。1978年の自民党総裁予備選にも出馬し、大平正芳氏、福田赳夫氏に続く93点を得ました。

1980年7月、鈴木善幸内閣では行政管理庁長官となります。減量化、行政サービスの改善、行政改革を検討する調査機構の整備を掲げ、のちに首相として取り組む行財政改革の領域を担当しました。

自民党総裁から首相へ、三つの内閣を率いる

鈴木善幸首相の退陣を受けた1982年の自民党総裁選で、中曽根氏は予備選559,673票を獲得して首位となりました。河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎の3氏が本選を辞退し、11月25日に第11代自民党総裁へ選ばれます。

1982年11月27日、第71代内閣総理大臣に就任しました。1947年の初当選から35年を経ての首相就任でした。

1983年12月の総選挙では自由民主党が単独過半数を割り、第2次中曽根内閣は新自由クラブとの連立政権として発足しました。一方、1986年7月の衆参同日選挙では自民党が大幅に議席を伸ばし、第3次中曽根内閣へ移ります。

1986年には党内合意によって自民党総裁任期が延長されました。総裁としての任期は1987年10月31日まで、首相としては同年11月6日まで在任しています。

第1次内閣396日、第2次内閣939日、第3次内閣473日で、首相通算在任日数は1,806日でした。

首相退任後も続いた国会活動と2003年の不出馬

首相退任翌年の1988年、中曽根氏は世界平和研究所の会長に就きました。首相経験者として外交、安全保障、憲法などに関する提言を続ける拠点となります。

1989年にはリクルート問題をめぐり国会で証人喚問を受け、自由民主党を離党しました。1990年の第39回総選挙には無所属で出馬して当選し、1991年に自民党へ復党しています。

選挙制度が小選挙区比例代表並立制となった後は、1996年と2000年の総選挙で比例北関東ブロックの自民党名簿単独1位となり当選。1947年から数えて衆議院議員当選は通算20回に達しました。

1997年には衆議院議員在職50年表彰を受け、同年、大勲位菊花大綬章を受章しています。

2003年、自民党が比例代表候補に適用していた「73歳定年制」をめぐって小泉純一郎首相と協議しました。最終的に第43回総選挙には立候補せず、半世紀を超えた国会議員生活を終えました。

議席を離れた後も憲法、外交、安全保障などをめぐる発言や提言を続けました。2018年5月には100歳を迎え、2019年11月29日に101歳で死去しています。

人生年表 中曽根康弘さんの歩み
1918年5月27日
群馬県高崎市に生まれる
中曽根松五郎・ゆく夫妻の次男
1938年3月
静岡高等学校文科丙類を卒業
1941年3月
東京帝国大学法学部政治学科を卒業
1941年4月
東京府属を経て海軍主計中尉となる
海軍経理学校補修学生を経て第2設営班主計長
1945年10月
内務省へ復帰
大臣官房調査部などで勤務
1947年1月
内務省を依願退官
1947年4月25日
第23回衆議院議員総選挙で初当選
群馬県第3区、民主党
1949年9月
青雲塾を結成
1953年7月~10月
米国へ出張
ハーバード大学夏期セミナーに参加
1959年6月
科学技術庁長官として初入閣
第2次岸内閣
1967年2月
拓殖大学総長に就任
1971年3月まで
1967年11月
運輸大臣に就任
第2次佐藤内閣
1970年1月
防衛庁長官に就任
第3次佐藤内閣
1971年7月
自由民主党総務会長に就任
1972年7月
通商産業大臣兼科学技術庁長官に就任
第1次田中角栄内閣
1974年12月
自由民主党幹事長に就任
1980年7月
行政管理庁長官に就任
鈴木善幸内閣
1982年11月
自由民主党総裁・内閣総理大臣に就任
1987年11月6日
内閣総理大臣を退任
通算在任1,806日
1988年6月
世界平和研究所会長に就任
1989年
リクルート問題を受け自由民主党を離党
1990年総選挙は無所属で当選
1991年
自由民主党に復党
1997年2月
衆議院議員在職50年表彰
2003年10月
衆議院議員としての活動を終える
第43回総選挙には立候補せず
2019年11月29日
死去
101歳

中曽根康弘氏の政策・政治姿勢

原子力・科学技術――平和利用を制度に置く

中曽根氏が早くから力を入れた分野の一つが、原子力と科学技術政策でした。1955年に成立した原子力基本法では、他の多数の国会議員とともに法案提出者となっています。

同法を審議した参議院商工委員会で、中曽根氏は原子力利用の方向について明確に述べました。

わが国におきましても平和利用一筋でそういう措置を講ずる必要がある

出典:国会会議録検索システム「第23回国会 参議院 商工委員会 第5号」(1955年12月15日)

原子力基本法は、研究・開発・利用を平和目的に限定し、民主・自主・公開の原則を置きました。中曽根氏の原子力政策への関与は、後年の閣僚活動より前から始まっていました。

行政改革と三公社の民営化

首相期の行財政改革では、第二次臨時行政調査会などの答申を踏まえ、国の組織や特殊法人、政府事業の見直しが進められました。

1985年4月には日本電信電話公社がNTT、日本専売公社が日本たばこ産業へ移行しました。国鉄についても再建監理委員会の議論を経て分割・民営化関連法が成立します。

国鉄改革法案を審議する国会では、改革後に目指す鉄道像を次のように語っています。

真に国民に密着した、地域の期待にもこたえられる鉄道として再出発させる必要がある

出典:国会会議録検索システム「第104回国会 衆議院 本会議 第27号」(1986年5月9日)

1987年4月1日には国鉄の分割・民営化が実施され、JR各社などの新体制へ移行しました。国鉄の長期債務や余剰人員への対応も改革と一体の課題となりました。

防衛政策――初の「防衛白書」を公表

防衛庁長官時代の1970年10月、日本政府は初めての防衛白書「日本の防衛」を公表しました。防衛政策や自衛隊について、政府が国民へ体系的に説明する資料です。

中曽根氏は文民統制についても、単に文官が制服組を統制する意味ではなく、国民代表である政治が軍事に優越するという趣旨を国会で説明しました。

日米同盟とアジア外交

首相就任後の1983年1月、中曽根氏は韓国を公式訪問しました。日本の首相による韓国への公式訪問として初めての首脳会談となり、その後に米国を訪れてロナルド・レーガン大統領と会談しました。

同年4月から5月にかけてはASEAN諸国を歴訪。クアラルンプールでの演説では、東南アジアと日本の関係について短い言葉で姿勢を示しています。

ASEANの繁栄なくして日本の繁栄なしとは私の信念であります。

出典:外務省「ASEAN歴訪の中曽根内閣総理大臣のクアラ・ルンプール・スピーチ」(1983年5月8日)

この歴訪では、日本が5年間でASEAN諸国から3,750人の青年・教員を招く交流計画も表明しました。経済協力だけでなく、人の交流を外交手段に位置付けています。

レーガン大統領とは首脳会談を重ね、1983年11月にはレーガン大統領が来日しました。安全保障と経済問題を含む日米関係を、首脳間の直接的な信頼関係を通して運営しようとしたのが中曽根外交の一面でした。

教育改革――臨時教育審議会を軸に制度を見直す

教育改革では、1984年に臨時教育審議会が設置されました。教育制度の柔軟化、学校教育、入試、教員の資質など幅広いテーマが検討対象となりました。

中曽根氏は改革の狙いを国会で次のように表現しています。

二十一世紀を目指す世界的日本人をつくる

出典:国会会議録検索システム「第101回国会 衆議院 本会議 第23号」(1984年5月8日)

臨時教育審議会は1987年までに答申をまとめました。中曽根内閣の教育改革は、行政改革とは別に長期的な制度課題を扱う政策領域として進められました。

税制改革――売上税は成立せず

税制では、所得税・法人税の負担軽減などと合わせて間接税改革を進めようとしましたが、1987年に提出した売上税法案は強い反発を受けました。

政府は同年5月に法案を廃案としました。中曽根内閣の段階では売上税は制度化されておらず、その後に導入された消費税とは分けて見る必要があります。

「戦後政治の総決算」と憲法観

中曽根内閣を象徴する言葉に「戦後政治の総決算」があります。ただし本人は、この言葉を戦後そのものの全面否定として説明してはいませんでした。

戦後政治を否定的に見て言っておるのではございません。

出典:国会会議録検索システム「第101回国会 参議院 本会議 第5号」(1984年2月10日)

その答弁では、自由主義、民主主義、平和主義、基本的人権、国際協調などを戦後の成果として挙げたうえで、制度や慣行を時代に合わせて見直す考えを示しています。

一方で中曽根氏は、若手議員のころから憲法改正を唱えた政治家でもありました。政界引退後も憲法をめぐる提言活動を継続し、このテーマは生涯を通した政治課題の一つとなりました。

選挙歴 中曽根康弘の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第23回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
初当選
群馬県 第3区 民主党 当選 65,484票 1位
第24回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
2回目の当選
群馬県 第3区 民主党 当選 45,261票 2位
第25回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
3回目の当選
群馬県 第3区 改進党 当選 71,967票 1位
第26回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
4回目の当選
群馬県 第3区 改進党 当選 65,878票 1位
第27回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
5回目の当選
群馬県 第3区 日本民主党 当選 83,399票 1位
第28回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
6回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 70,852票 2位
第29回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
7回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 76,274票 2位
第30回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
8回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 84,504票 2位
第31回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
9回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 72,731票 2位
第32回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
10回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 106,823票 1位
第33回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
11回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 93,879票 2位
第34回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
12回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 56,454票 4位
第35回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
13回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 95,961票 2位
第36回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
14回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 96,930票 2位
第37回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
内閣総理大臣在任中、15回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 117,970票 2位
第38回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
16回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 115,381票 2位
第39回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
自由民主党離党中に無所属で当選、17回目
群馬県 第3区 無所属 当選 86,552票 3位
第40回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
18回目の当選
群馬県 第3区 自由民主党 当選 64,387票 4位
第41回衆議院議員総選挙
定数:21 比例復活:該当なし(比例単独)
19回目の当選
比例北関東 自由民主党 当選 個人得票なし(比例代表) 自由民主党名簿単独1位
第42回衆議院議員総選挙
定数:20 比例復活:該当なし(比例単独)
20回目の当選、最後の総選挙
比例北関東 自由民主党 当選 個人得票なし(比例代表) 自由民主党名簿単独1位

中曽根康弘氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

行政改革

自主防衛と日米安保

重大緊急事態への政府対応

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

中曽根康弘氏をめぐる評価と論点

1985年の靖国神社公式参拝

1985年8月15日、中曽根首相は靖国神社を公式参拝しました。政府は戦没者を追悼し、平和への決意を新たにする目的だと説明しました。

一方、中国をはじめアジア諸国から反応が寄せられ、外交上の問題となりました。外務省の外交青書も、公式参拝をめぐりアジア諸国から「様々な反応」があったことを記録しています。

1986年の少数民族をめぐる発言

1986年9月、自民党の研修会で、米国の複数の人種・民族と知的水準を関連付ける趣旨の発言をし、米国議会や報道などから人種差別的だとの批判を受けました。

中曽根氏は国会で「人種差別や他国を誹謗するような考えは毛頭なかった」と説明し、米国側には謝罪を伝えています。

同じ時期には、日本を単一民族と捉える趣旨の発言についても国会で追及を受け、アイヌ民族など少数民族の存在をめぐる認識が論点となりました。首相としての国際発信のあり方が問われた出来事でした。

関連書籍
中曽根康弘さんの著書・関連書籍
自省録 歴史法廷の被告として
書籍
自省録 歴史法廷の被告として
著者:中曽根 康弘 / 出版社:新潮社 / 発売日:2017年04月28日頃
自省録 歴史法廷の被告として
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著者:中曽根康弘 / 出版社:新潮社 / 発売日:2004年06月
なかそね荘 賢人たちは激動の10年をどう見つめてきたのか
書籍
なかそね荘 賢人たちは激動の10年をどう見つめてきたのか
著者:中曽根康弘/渡邉恒雄(実業家) / 出版社:世界文化社 / 発売日:2015年01月22日頃

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政治人生の転機 中曽根康弘の政治人生の転機
01
1947年
内務官僚から衆議院議員へ
内務省を退官し、群馬県第3区から初めて衆議院議員選挙に立候補して当選。
なぜ転機なのか 官僚として行政に携わる立場から、選挙で選ばれる政治家へ進路を切り替えたため。
02
1959年
科学技術庁長官として初入閣
第2次岸内閣で科学技術庁長官となり、41歳で初入閣。
なぜ転機なのか 国会議員としての活動から、政府の政策執行を担う閣僚へ活動領域が広がったため。
03
1982年11月
自由民主党総裁・内閣総理大臣へ
自由民主党総裁に選ばれ、第71代内閣総理大臣に就任。
なぜ転機なのか 国政入りから35年を経て政権の最高責任者となり、行政改革・外交・教育改革などを内閣の主要課題として進めたため。
04
2003年10月
56年余の国会議員生活を終える
自由民主党の比例代表候補の年齢制限を受け、第43回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
なぜ転機なのか 1947年以来続いた衆議院議員としての活動を終え、以後は議席を持たず政策提言を続ける立場となったため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
その他の参考資料

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