上田耕一郎の経歴・学歴と生い立ち|旧制一高で入党、共産党副委員長・参院4期の歩み

上田耕一郎
ひと目でわかるプロフィール 上田耕一郎
うえだ こういちろう
初当選
1974年(第10回参議院議員通常選挙)
最終学歴
東京大学経済学部卒業
主な前職
政党職員、新聞記者・ジャーナリスト
政界入り
政党職員から
生年月日 1927年3月9日
没年月日 2008年10月30日

上田耕一郎氏は、日本共産党の理論・政策部門で長く活動したのち、1974年から東京都選出の参議院議員を4期務めた政治家です。党では幹部会副委員長などを歴任し、国会では政治資金、住宅、安全保障、障害者問題など幅広い分野を取り上げました。

国会議員になるまでには、旧制第一高等学校での入党、東京大学卒業後の中野での地域活動、党中央の理論・政策部門という長い前史があります。ここでは、そうした歩みから1998年の議員引退、その後の党活動、2008年の死去までを時系列でたどります。

上田耕一郎氏を理解する3つのポイント
  1. 旧制一高在学中に日本共産党へ入り、東京大学卒業後は中野の地域活動から党中央の理論・政策部門へ進みました。
  2. 1974年の参議院選挙で東京都選挙区から初当選し、その後4期24年間にわたって参議院議員を務めました。
  3. 政治資金、安全保障、公団住宅、障害者政策などを国会で取り上げ、議員引退後も党副委員長や憲法をめぐる活動を続けました。

上田耕一郎の生い立ち|神奈川県に生まれ、東京・中野で育った少年期

上田耕一郎氏は1927年3月9日、神奈川県に生まれました。中野区立中央図書館の資料では、東京・中野に移った上田氏は、野方小学校の前で駄菓子屋を営む実家で育ったと紹介されています。

後年の政治活動でも長く東京を基盤としますが、その前段階にあったのが東京・中野での地域とのつながりでした。後に日本共産党の東京中野地区委員を務め、大学卒業後も同地域で活動を続けることになります。

日本共産党前議長を務めた不破哲三氏は実弟です。兄弟はいずれも後に党の指導部に入りますが、上田氏が党へ入ったのは戦後間もない学生時代でした。

上田耕一郎の学歴|旧制一高で入党、東京大学卒業後は中野の地域活動へ

学歴一覧上田耕一郎の学校歴
横にスクロールできます
区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
旧制高校第一高等学校―旧制度・比較不可在学中の1946年に日本共産党へ入党
大学東京大学経済学部67.5(文科二類・2027年度参考)卒業

※第一高等学校は旧制のため現在の偏差値とは比較できません。東京大学経済学部は科類制のため、現在の文科二類を参考値として掲載しています。

第一高等学校へ進学した上田氏は、1946年12月、在学中に日本共産党へ入党し、一高細胞を結成しました。

その後、東京大学経済学部を卒業。中野区立中央図書館の資料によると、「中野新報」の記者として地域活動に携わり、中野懇談会を基盤に活動しました。

上田氏自身は後に、中野懇談会について自著の中で次のように振り返ったと紹介されています。

「中野懇談会には住民運動の原型がある」

出典:中野区立中央図書館「ゆかり展示回顧録 ~中野の偉人・文化人ハイライト~」(公開日記載なし)

国政選挙へすぐ進んだわけではありません。地域活動と党活動を続けたのち、1960年代から党中央の政策・理論分野で役割を担うようになります。

理論・政策部門から日本共産党の中枢へ

1964年、上田氏は党中央委員会の理論・政策部門に入り、同年の第9回党大会で中央委員候補に選出されました。1966年の第10回党大会では中央委員となり、その後は政策委員会責任者も務めました。

国立国会図書館には、1966年に『中央公論』へ寄稿した「日本共産党の自主独立路線」や、1968年の「日米安保条約論」などの論文が所蔵されています。国会議員になる以前から、党内の実務だけでなく理論・政策に関する文章を継続的に発表していました。

1970年の第11回党大会で幹部会委員となり、「赤旗」編集局長に就任。1973年の第12回党大会では常任幹部会委員となり、「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」に関する報告を担当しました。

こうして党の政策形成や言論活動を担っていた時期を経て、40代後半で国政選挙へ進みます。

人生年表 上田耕一郎さんの歩み
1927年3月9日
神奈川県に生まれる
1946年12月
第一高等学校在学中に日本共産党へ入党
一高細胞を結成
東京大学経済学部卒業後
「中野新報」の記者などとして中野で地域活動
中野懇談会を基盤に活動
1964年
党中央委員会理論政策委員となる
第9回党大会で中央委員候補に選出
1966年
日本共産党中央委員に選出
1970年
幹部会委員・「赤旗」編集局長に就任
1973年
常任幹部会委員に就任
第12回党大会で民主連合政府綱領についての提案を報告
1974年7月7日
第10回参議院議員通常選挙で初当選
東京都選出
1976年
日本共産党幹部会副委員長に選出
1990年~1991年
日本共産党選挙対策局長を務める
1998年
参議院議員を退く
4期24年間在職
1998年以降
議員引退後も党副委員長として活動
党本部ビル建設委員会責任者、憲法改悪反対闘争本部長などを歴任
2006年
第24回党大会で名誉役員となる
2008年10月30日
慢性呼吸不全のため死去
81歳

上田耕一郎氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

政治資金・行政の透明性

自衛隊と政治的中立

公共住宅・住宅政策

障害者の移動支援

円高・日米経済政策

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

上田耕一郎の経歴|1974年に参議院初当選、東京選挙区で4期24年

1974年7月の第10回参議院議員通常選挙で、東京都選出議員として初当選しました。当時47歳でした。

その後は1980年、1986年、1992年の参議院選挙でも当選し、1998年まで4期24年間、参議院議員を務めました。得票数や順位など各選挙の詳細は、選挙歴データで確認できます。

党内では1976年に幹部会副委員長に選出されました。国会では参院議員団長、国会議員団総会副会長などを務め、1990年から1991年には選挙対策局長も担当しています。

議員として扱った分野は一つに限られませんでした。政治資金や行政、安全保障に加え、建設委員会で住宅・都市政策を継続的に質問し、障害者政策でも党議員団の責任者を務めています。

選挙歴 上田耕一郎の選挙歴
横にスクロールできます
年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第10回参議院議員通常選挙
定数:4 比例復活:なし
参議院議員初当選
東京都 選出 日本共産党 当選 819,895.29 4位
第12回参議院議員通常選挙
定数:4 比例復活:なし
2選
東京都 選出 日本共産党 当選 815,754 3位
第14回参議院議員通常選挙
定数:4 比例復活:なし
3選
東京都 選出 日本共産党 当選 702,232 4位
第16回参議院議員通常選挙
定数:4 比例復活:なし
4選
東京都 選出 日本共産党 当選 756,647 2位

政治資金と行政をめぐる問題を国会で追及

上田氏の国会活動で繰り返し現れるテーマの一つが、政治資金と行政の透明性でした。1970年代には田中角栄元首相をめぐる金脈問題やロッキード事件を取り上げ、建設行政との関係についても質問しています。

1988年の参議院予算委員会ではリクルート問題を取り上げ、リクルートコスモスに対する過去の宅地建物取引業法上の処分や、同社関係者と行政機関・審議会との関係について政府側に質問しました。

1992年には「議員秘書給与の企業負担に関する質問主意書」を提出。企業が政治家の秘書給与を負担するケースについて、政治資金規正法上の扱いを政府に問いました。

「これは形を変えた明らかな政治献金である。」

出典:参議院「議員秘書給与の企業負担に関する質問主意書」(1992年5月14日)

質問主意書では、企業からの秘書派遣が「研修」とされている場合を含め、実態が無償の労務提供であれば寄附と判断するべきではないかと政府見解を求めています。

政治人生の転機 上田耕一郎の政治人生の転機
01
1946年12月
旧制一高在学中に日本共産党へ入党
第一高等学校在学中に日本共産党へ入り、一高細胞を結成しました。
なぜ転機なのか 学生時代から政党活動へ入り、その後の地域活動、党理論・政策部門へ進む出発点となったため。
02
1974年7月
参議院東京都選挙区で初当選
第10回参議院議員通常選挙で819,895.29票を得て4位当選しました。
なぜ転機なのか 党の理論・政策活動を担う立場から国会議員となり、その後4期24年間にわたる国会活動が始まったため。
03
1998年
参議院4期24年を終え議員を引退
参議院議員を退いた後も党副委員長として活動を続けました。
なぜ転機なのか 国会議員としての活動から、党本部建設や憲法をめぐる党活動を中心とする時期へ移ったため。

安全保障、自衛隊、国際問題をめぐる論戦

安全保障分野では、自衛隊の政治的中立や防衛費、日米安保を継続的に取り上げました。

1977年4月の参議院予算委員会では、自衛隊関係者による選挙への組織的関与があったのではないかとして資料を示し、防衛庁や政府に調査を求めています。政府側は、政治的行為には法令上の制限があると説明する一方、上田氏が示した個別事例については調査が必要との答弁をしました。

「その一国の軍隊が総ぐるみで一つの政党を推すと、法律に違反して。」

出典:第80回国会 参議院予算委員会第22号(1977年4月16日)

1983年の参議院行政改革に関する特別委員会では、ソ連によるアフガニスタンへの軍事介入と米国によるグレナダ侵攻を取り上げ、民族自決や国際法の観点から政府の外交姿勢を質問しました。

経済外交も議論の対象でした。1987年の参議院予算委員会では、1985年のプラザ合意後に進んだ円高と国内経済への影響について中曽根内閣を批判しています。

「これは僕は中曽根内閣の大失政だと思いますよ。」

出典:第108回国会 参議院予算委員会第6号(1987年5月7日)

これは上田氏自身による当時の政府への評価です。質問では、プラザ合意以後の為替変動、米国の財政赤字、日本政府の経済政策を一連の論点として扱っていました。

公団住宅と都市政策を長く扱う

参議院では建設委員会にたびたび出席し、公共住宅を誰にどう供給するかという問題を長期にわたって取り上げました。

1980年、住宅公団と宅地開発公団の統合が議論されていた際には、新しい公団の法制度でも低所得層や住宅に困っている人への住宅供給という性格を明確にするよう求めています。

「新公団構想の第一の問題点は国民本位の住宅建設だと思うんです。」

出典:第91回国会 参議院建設委員会第13号(1980年5月13日)

同じ審議では、公団賃貸住宅の家賃、住宅管理、入居者や労働組合の意見を制度設計に反映する方法も質問しました。1990年代に入ってからも公共賃貸住宅や家賃負担のあり方を取り上げており、単発のテーマではありませんでした。

障害者政策では移動の安全を国会で取り上げる

上田氏は障害者問題の党議員団責任者も務めました。1998年4月の参議院交通・情報通信委員会では、公共分野への情報通信投資を審議する中で、障害のある人の移動を支援するシステムを取り上げています。

「国民のニーズとの関係が一つ大きな問題だと思うんですね。」

出典:第142回国会 参議院交通・情報通信委員会第13号(1998年4月23日)

この質問で上田氏は、視覚障害者との懇談で駅ホームからの転落を防いでほしいという要望を受けていると説明しました。情報通信技術を導入する場合でも、利用する人の具体的な安全や需要を優先するよう政府側に求めています。

1998年に議員を引退、その後も党活動を継続

1998年、参議院議員を4期24年で退きました。 ただし、国会議員を辞めたことで政治活動そのものを終えたわけではありませんでした。

議員引退後も日本共産党幹部会副委員長として活動し、党本部ビル建設委員会責任者や憲法改悪反対闘争本部長などを歴任しました。国会の委員会質問から、党組織や党外での運動を中心とする活動へ比重が移ります。

2006年の第24回党大会で名誉役員となり、その後も憲法改悪反対闘争本部員として活動しました。

2008年、81歳で死去

上田氏は2008年10月30日午前6時28分、慢性呼吸不全のため東京都内の病院で死去しました。81歳でした。

同年11月17日に東京都内で開かれたお別れ会には、日本共産党関係者だけでなく各党の国会議員や外交関係者、労働組合・各種団体など約600人が参列したと報じられています。

日本共産党は追悼の中で、田中金脈、ロッキード、リクルート問題などの国会論戦や、議員引退後の憲法をめぐる活動を振り返りました。参議院の公式記録には、1974年、1980年、1986年、1992年の4回の当選歴が残されています。

関連書籍
上田耕一郎さんの著書・関連書籍
上田耕一郎著作集(第6巻)
書籍
上田耕一郎著作集(第6巻)
著者:上田耕一郎/上田耕一郎著作集編集委員会 / 出版社:新日本出版社 / 発売日:2013年10月
上田耕一郎著作集(第5巻)
書籍
上田耕一郎著作集(第5巻)
著者:上田耕一郎/上田耕一郎著作集編集委員会 / 出版社:新日本出版社 / 発売日:2013年08月
上田耕一郎著作集(第4巻)
書籍
上田耕一郎著作集(第4巻)
著者:上田耕一郎/上田耕一郎著作集編集委員会 / 出版社:新日本出版社 / 発売日:2013年06月

※商品リンクにはアフィリエイトリンクを含みます。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA