昭和後期の自民党政治をたどると、金丸信氏の名前は国会運営、閣僚、党務、外交をめぐる折衝など、異なる場面に現れます。
その歩みは国会から始まったわけではありません。この記事では、山梨で過ごした青年期と教員・企業経営の時代から、長い国政生活、そして晩年までを時系列でたどります。
- 政治家になる前に、教壇と地域企業の経営を経験した人物です。
- 国会対策、閣僚、党務を重ね、政府と自民党の複数の要職を経験しました。
- 1990年代初頭には、対北朝鮮の党間外交と政治資金をめぐる司法手続という性質の異なる出来事を経験しました。
金丸信の生い立ち|山梨・今諏訪村で生まれ育つ
金丸信氏は1914年9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村に生まれました。現在の南アルプス市にあたる地域です。国政進出よりはるか前、少年期から青年期までの生活基盤は山梨にありました。
金丸信の学歴|東京農業大学専門部へ
| 区分 | 学校名 | 学部・専攻 | 現在の偏差値・難易度 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 大学 | 東京農業大学専門部 | ― | 現在の偏差値と単純比較困難 | 1936年卒業 |
※金丸氏が学んだ専門部は現在の大学入試制度とは異なるため、現代の偏差値をそのまま当てはめていません。
金丸氏が学んだのは、現在の大学入試制度とは仕組みが異なる時代です。進学先は東京農業大学専門部で、1936年に卒業しています。
当時の専門部は、現在の学部・学科とそのまま対応するものではありません。そのため、現代の偏差値を当てはめて比較すると誤解を招くため、一覧では「比較困難」として扱います。
進学先は東京農業大学専門部でした。1936年に卒業し、学生生活を終えると故郷へ戻ります。
後年まとめられた自著『立ち技寝技―私の履歴書』にも、政治家になってからだけではなく、それ以前の生活が本人の回想として残されています。国政進出は、卒業からさらに20年以上後のことでした。
金丸信の経歴|中学教員を経て、地元で企業経営に携わる
大学卒業後は、まず故郷で中学教員を務めました。その後は家業の醸造業へ移り、教育の仕事とは異なる道を歩みます。
やがて日東工業を創設し、太平醸造、甲府コンクリートなど地域企業の経営に携わりました。山梨県立図書館の人物資料には、日東工業社長、太平醸造社長、甲府コンクリート社長のほか、テレビ山梨代表取締役を務めた経歴も記録されています。
企業だけではありません。白根町消防団長、山梨県消防協会副会長など、地元の消防関係でも役職を担いました。国政へ入る前には、教員、企業経営、地域活動という複数の現場を経験していました。
1958年、山梨県全県区から初めて国政へ
1958年5月の第28回衆議院議員総選挙で、自由民主党から山梨県全県区に立候補しました。初めての国政選挙で当選し、43歳で衆議院議員となります。
以後、1990年の第39回総選挙まで12回続けて議席を得ました。中選挙区制の山梨県全県区を政治活動の基盤としながら、国会と自民党内で役割を広げていきます。
後年、自身の政治哲学については四つの言葉にまとめています。
「スジを通す、人のために汗を流す、人間関係を大切にする、困る相談に乗る」
出典:南アルプス市立図書館「金丸四原則とは何か」(2017年3月14日更新)
国会対策を経て、建設・国土行政の閣僚へ
衆議院議員として経験を重ねるなかで、国会対策委員長など党の国会運営に関わる役職を務めました。その後、活動の範囲は政府へ移ります。
1972年12月、第2次田中角榮内閣で建設大臣として初入閣しました。建設大臣とあわせ、首都圏整備委員会委員長、近畿圏整備長官、中部圏開発整備長官も担当しました。
1974年12月に発足した三木内閣では国土庁長官に就任します。建設行政に続いて、国土利用や地域開発を所管する立場を担いました。
防衛庁長官、党総務会長・幹事長、そして副総理へ
1977年11月の福田赳夫改造内閣では防衛庁長官となりました。土地・建設、国土政策とは異なる安全保障分野を担当することになります。
1980年代に入ると政府だけでなく、自民党執行部での役割が続きました。1983年12月に総務会長、1984年10月には幹事長に就任し、幹事長は1986年7月まで務めています。
1986年7月22日に成立した第3次中曽根内閣では国務大臣となり、内閣法第9条による指定を受けました。首相官邸の歴代内閣資料で「いわゆる副総理」と説明される立場です。
竹下登を軸に進んだ自民党内の再編
1980年代半ば、自民党田中派の内部では次の党総裁をめぐる動きが具体化しました。1985年2月には竹下登氏を中心とする創政会が発足し、金丸氏もその動きに加わります。
当時を取材した日本記者クラブの長田達治氏は、金丸氏、小沢一郎氏、梶山静六氏、羽田孜氏らが竹下氏を独自の総裁候補として擁立するため創政会をつくったと振り返っています。
1987年7月には田中派から竹下派が独立しました。金丸氏はその後、竹下派会長を担い、党執行部や内閣の役職とは別に、自民党内の派閥運営にも深く関わるようになります。
1990年の訪朝と三党共同宣言
1990年9月、金丸氏は自由民主党代表団の団長として北朝鮮を訪問しました。日本社会党代表団も訪朝し、朝鮮労働党を含めた三党間で会談が行われます。
9月28日には、金丸氏、社会党の田辺誠氏、朝鮮労働党の金勇淳氏がそれぞれの党を代表して「日朝関係に関する日本の自由民主党、日本社会党、朝鮮労働党の共同宣言」に署名しました。
宣言では日朝間の関係正常化、政治・経済・文化面での交流、政府間交渉の開始へ働きかけることなどが盛り込まれました。これは日本政府と北朝鮮政府が締結した条約ではなく、三党代表団による共同宣言です。
1992年、政治資金規正法違反と議員辞職
1992年1月、金丸氏は自由民主党副総裁に就任しました。しかし同年、東京佐川急便元社長から5億円の献金を受けていた問題が表面化します。
衆議院に提出された政府答弁書によると、金丸氏は政治資金規正法22条の2第3項に違反して寄付を受けたことを認める上申書を提出しました。東京地検は9月28日、東京簡易裁判所へ略式起訴しています。
東京簡裁は罰金20万円の略式命令を出し、正式裁判の請求がなかったため10月14日に確定しました。党ではこれに先立つ8月に副総裁を辞任していました。
10月14日に衆議院議員の辞職を表明し、辞職願を提出します。10月21日に辞職が正式に認められ、1958年から続いた衆議院議員としての在職が終わりました。
所得税法違反事件は判決前に公訴棄却
政治資金規正法違反事件の後も捜査は続き、1993年3月6日、東京地検は金丸氏を所得税法違反の容疑で逮捕しました。その後、起訴されて裁判が進められます。
金丸氏は公判中だった1996年3月28日に死去しました。81歳でした。本人に対する所得税法違反事件は、死亡に伴って公訴棄却となっています。
1992年の政治資金規正法違反では罰金20万円の略式命令が確定しました。一方、1993年に起訴された所得税法違反事件は、公判中の1996年に金丸氏が死去したため公訴棄却となり、本人について判決は確定していません。
金丸信の政策と政治姿勢
土地を「商品」だけでは扱えないとした住宅政策
建設大臣時代の金丸信氏は、地価高騰と住宅難を一体の問題として捉えていました。1973年の衆議院建設委員会では、住宅を建てたくても土地を確保できない状況を前提に、土地の公共性を強く意識した答弁をしています。
「土地は公共に優先すべきである」
出典:国会会議録検索システム「第71回国会 衆議院建設委員会 第15号」(1973年5月9日)
同じ時期、金丸氏は大都市圏の住宅不足を「緊急な課題」と位置づけ、宅地造成と住宅供給を進める必要性を繰り返し説明しています。道路や国土開発だけではなく、地価・土地利用・住宅供給を結びつけて考えていた点が、建設行政を担った時期の特徴でした。
土地・住宅政策では「底辺」を見る政治を語る
建設大臣だった1973年2月、衆議院内閣委員会では地価上昇や住宅問題について答弁しました。土地を「国民の共有する領土」とする考えも示しています。
「底辺を見て考えるということが政治だろう。」
出典:国会会議録検索システム「第71回国会 衆議院 内閣委員会 第5号」(1973年2月27日)
地域格差への国土政策
国土庁長官としては、離島などと本土との地域格差について国会で議論しています。1975年の参議院建設委員会では、条件が遅れている地域への重点的な投資について自らの考えを述べました。
「非常におくれておるところへ集中的に金をつぎ込むということも私は民主主義だと思う」
出典:国会会議録検索システム「第75回国会 参議院 建設委員会 第8号」(1975年3月27日)
行財政改革の国会審議
1981年には衆議院の行財政改革に関する特別委員会委員長を務めました。同年10月には行政改革をめぐる委員会審議や公聴会を主宰し、政府提出法案や行政機構の見直しに関する国会審議を進めています。
防衛庁長官として示したシビリアンコントロール観
防衛庁長官在任中の1978年には、自衛隊と政治の関係をめぐる国会審議が続きました。8月の衆議院内閣委員会で、金丸氏はシビリアンコントロールを次のように表現しています。
「シビリアンコントロールとは政治優先ということであります。」
出典:国会会議録検索システム「第84回国会 衆議院 内閣委員会 第27号」(1978年8月16日)
党内人事をめぐって語った判断基準
同じ1978年、参議院内閣委員会では自民党総裁選と派閥の関係について質問を受けました。特定の派閥を基準にするのではなく、政治家として誰を選ぶのかという問いに対する答弁です。
「私は日本のためになる、国民のためになる、こういう人を選ぶことが私は政治家としてやる道だ」
出典:国会会議録検索システム「第85回国会 参議院 内閣委員会 第3号」(1978年10月19日)
金丸信氏の国会発言をテーマ別に見る
記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。
自衛隊と国民的合意
「防衛という問題を理解していただけるか」
防衛政策について、国会で幅広く議論し、国民の理解と合意を得ながら進める必要があるとの考えを述べた。
都市交通と都市環境
「都市環境と自動車交通の調和」
建設大臣として、都市内交通と環境を調和させ、道路を効率的に利用する政策提案を今後の施策に取り入れる考えを示した。
アジア安全保障と日中関係
「日中問題につきましては、私は総理に、この問題を進めていかなければ政治になりません」
防衛庁長官としてアジアの安全保障環境を論じつつ、日中関係の正常化・前進を政府が積極的に進めるべきだとの考えを説明した。
※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。
PR:商品リンクにはアフィリエイトリンクを含みます。
| 年月日 | 選挙 | 選挙区・地域 | 所属 | 結果 | 得票・順位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1958年 5月22日 | 第28回衆議院議員総選挙 初当選(1回目) | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 69,354.920票 1位 |
| 1960年 11月20日 | 第29回衆議院議員総選挙 当選2回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 71,435.510票 1位 |
| 1963年 11月21日 | 第30回衆議院議員総選挙 当選3回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 62,206.630票 4位 |
| 1967年 1月29日 | 第31回衆議院議員総選挙 当選4回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 71,339.110票 2位 |
| 1969年 12月27日 | 第32回衆議院議員総選挙 当選5回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 68,660.620票 2位 |
| 1972年 12月10日 | 第33回衆議院議員総選挙 当選6回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 102,954.790票 1位 |
| 1976年 12月5日 | 第34回衆議院議員総選挙 当選7回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 67,609票 3位 |
| 1979年 10月7日 | 第35回衆議院議員総選挙 当選8回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 92,007票 1位 |
| 1980年 6月22日 | 第36回衆議院議員総選挙 当選9回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 86,919票 1位 |
| 1983年 12月18日 | 第37回衆議院議員総選挙 当選10回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 96,449票 1位 |
| 1986年 7月6日 | 第38回衆議院議員総選挙 当選11回目 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 112,530票 1位 |
| 1990年 2月18日 | 第39回衆議院議員総選挙 当選12回目。最後の衆議院議員総選挙 | 山梨県 全県区 | 自由民主党 | 当選 | 101,756票 1位 |
- 出身地、生没年、企業経営歴、消防関係役職、衆議院議員・副総裁・副総理歴を確認
- 本人著書の書誌情報、著者同定、生没年典拠を確認
- 第2次田中角榮内閣での建設大臣等の就任を確認
- 三木内閣での国土庁長官就任を確認
- 福田赳夫改造内閣での防衛庁長官就任を確認
- 第3次中曽根内閣で国務大臣となり、内閣法第9条による指定を受けたことを確認
- 自由民主党総務会長、幹事長の在任歴を確認
- 自由民主党副総裁就任、副総裁辞任、議員辞職に至る時期を確認
- 5億円献金、政治資金規正法違反、略式起訴、略式命令確定を確認
- 1958年から1990年までの衆議院総選挙の立候補・当選歴、順位、定数、得票数を確認
この記事の更新履歴
- 2026年10月4日 建設大臣時代の土地・住宅政策を国会会議録で補強し、本人発言を追加
- 2026年10月2日 学歴後の最初の職歴・政界入りを経歴H2へ再配置し、後続の経歴項目を人物固有H3へ整理
- 2026年10月2日 経歴の続きと重複政策H2をH3へ整理し、高橋光男・岸本周平記事と同じ見出し階層へ統一
- 2026年10月2日 本文内の手動管理ショートコードと監査用の汎用H3を撤去し、WordPress側の自動表示と内容に即した見出し構造へ整理
- 2026年10月2日 本文の重要な年月・当選・就任・退任などを赤文字で強調し、重要箇所の視認性を改善
- 2026年9月28日 本人の国会会議録による一次情報をテーマ別に確認し、一次情報深掘りセクションを追加・更新。
- 2026年9月18日 記事を新規作成。現況情報を確認




















