古賀誠の経歴・学歴と生い立ち|戦争遺児から国会議員、運輸相・自民党幹事長まで

古賀誠
ひと目でわかるプロフィール 古賀誠
こが まこと
出身地
福岡県田川郡金田町(現・福智町)
初当選
1980年(第36回衆議院議員総選挙)
最終学歴
日本大学商学部卒業
主な前職
会社員、国会議員秘書
政界入り
国会議員秘書から
生年月日 1940年8月5日

古賀誠氏は、福岡県南部を地盤に衆議院議員を10期務めた政治家です。運輸大臣や自由民主党国会対策委員長、幹事長などを歴任し、党内では宏池会の再編にも深く関わりました。

その歩みの出発点にあったのは、父を戦争で失い、母に育てられた幼少期でした。国会議員秘書を経て自ら政治家となり、道路・交通行政、戦没者遺族の支援、平和をめぐる活動へと仕事の幅を広げていきます。

古賀誠氏を理解する3つのポイント
  1. 父を戦争で失い、福岡県瀬高町で母に育てられた経験を原点の一つとして政治を志しました。
  2. 参議院議員秘書を経て1979年に初出馬し、翌1980年の初当選から衆議院議員に10回連続で当選しました。
  3. 道路・交通行政、自民党の党運営、戦没者遺族の支援と平和の発信という複数の分野で長く活動しました。

古賀誠の生い立ち|田川郡金田町で生まれ、2歳で瀬高へ

古賀誠氏は1940年8月5日生まれです。公的な人物紹介では福岡県瀬高町生まれとされてきましたが、本人は後年、実際に生まれた場所は田川郡金田町、現在の福智町だったと詳しく振り返っています。

当時、両親は親族が営む漬物店を手伝うため金田町で暮らしていました。古賀氏が2歳ごろの1942年、父に召集令状が届くと、母は古賀氏と姉を連れて父方の実家がある瀬高へ戻りました。古賀氏にとって瀬高は、幼少期以降を過ごした故郷です。

父はフィリピンへ送られ、1944年9月30日にレイテ島で戦死しました。古賀氏はまだ4歳でした。

戦後、母は乾物などを売り歩きながら姉弟を育てました。1946年ごろには、戦没者の合同慰霊のため、父の遺骨に代わるものを納めた箱を抱えて帰ってきた母の姿も記憶に残ったといいます。

幼かったから、戦争を「知る」世代というよりも、肌にすり込まれたという感覚だ。

出典:朝日新聞「古賀誠氏が語る戦争体験」(2025年8月12日)

小学校高学年のころ、母が戦没者遺族への支援を求める書類を政治家へ送ろうとしている姿を目にしました。古賀氏は2005年の国会で、この場面を「初めて政治家への志向を意識」した記憶として挙げています。

古賀誠の学歴|山門高校から大阪の金物問屋へ、そして日本大学へ

学歴一覧古賀誠の学校歴
横にスクロールできます
区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
小学校瀬高町立上庄小学校――現在のみやま市
中学校瀬高町立瀬高中学校――現在のみやま市
高校福岡県立山門高等学校―54(2026年度版)―
大学日本大学商学部47.5〜52.5(商学部・2027年度参考)卒業

※偏差値・難易度は古賀氏の在学当時ではなく現在の目安です。

地元の上庄小学校、瀬高中学校を経て、福岡県立山門高等学校へ進みました。中学ではバスケットボールに打ち込みます。一方、高校時代について本人は後年、けんかを繰り返すような時期もあったと率直に振り返っています。

高校卒業後、すぐ大学へ進んだわけではありません。政治に関心を持っていた古賀氏に対し、母は簡単には賛成せず、まず社会で働く道を選びました。大阪の金物問屋へ入り、約1年間働きます。

その後、政治の世界へ近づく機会を得て上京し、日本大学商学部で学びながら、福岡選出の参議院議員だった鬼丸勝之氏のもとで運転手や秘書を務めました。大学生活と議員秘書の仕事を並行しながら、国会と選挙の実務を身近で学んでいきました。

大学卒業後も秘書として活動を続け、政治家を支える側で長い経験を積みます。のちに自ら選挙へ出る際には、この時期に築いた人間関係と実務経験が背景にありました。

人生年表 古賀誠さんの歩み
1940年8月5日
福岡県田川郡金田町(現・福智町)で生まれる
本人は後年、出身・本籍は瀬高町だが実際の出生地は金田町だったと説明
1942年ごろ
父の出征を機に瀬高町へ移る
母、姉とともに父方の実家へ戻る
1944年9月30日
父がフィリピン・レイテ島で戦死
戦後は母が行商などをしながら姉弟を育てる
1953年3月
瀬高町立上庄小学校を卒業
1956年3月
瀬高町立瀬高中学校を卒業
1959年3月
福岡県立山門高等学校を卒業
1959年ごろ
大阪の金物問屋で働く
約1年間の丁稚奉公を経験
1965年3月
日本大学商学部を卒業
大学時代から鬼丸勝之参議院議員のもとで政治を学ぶ
1979年10月
第35回衆議院議員総選挙に初出馬
旧福岡3区で次点落選
1980年6月
第36回衆議院議員総選挙で初当選
旧福岡3区でトップ当選
1987年
建設政務次官に就任
1991年
衆議院建設委員長に就任
1996年11月
第2次橋本内閣で運輸大臣に就任
初入閣
1998年
自由民主党国会対策委員長に就任
2000年12月
自由民主党幹事長に就任
2001年
自由民主党道路調査会長に就任
2002年
日本遺族会会長に就任
2006年
宏池会会長に就任
2008年5月
古賀派と谷垣派が再合流
宏池会が再結集
2009年8月
第45回衆議院議員総選挙で10回目の当選
福岡7区
2012年11月
次期衆院選への不出馬と政界引退を表明
衆議院議員としての活動を終える
2015年
全国道路利用者会議会長に就任
2016年3月
みやま市名誉市民として顕彰される
2025年5月
全国道路利用者会議会長を退任
その後は最高顧問として活動

古賀誠の経歴|1979年の初出馬は次点、7カ月後にトップ当選

古賀氏が初めて衆議院議員選挙へ立候補したのは1979年10月でした。中選挙区時代の旧福岡3区で自由民主党から出馬し、52,535票を獲得します。

定数5に対して結果は6位。最後の当選者との差は4,548票でした。秘書から候補者へ立場を変えた最初の挑戦は、議席に届かず終わります。

しかし、次の総選挙はわずか7カ月余り後に行われました。1980年6月22日の第36回衆議院議員総選挙では85,822票を集め、旧福岡3区でトップとなり39歳で初当選します。

初出馬のころに掲げた政治の原点について、古賀氏は後年、母の人生と重ねながら次のように語っています。

おふくろのような戦争未亡人を再びこの国では絶対にださない。これがオレの政治だ

出典:公研「おふくろのような戦争未亡人を再びこの国では絶対に出さない【古賀誠】」(2024年6月号)

建設行政を歩み、1996年に運輸大臣へ

初当選後は衆議院社会労働委員会に所属し、高齢者福祉や老人保健を含む社会保障分野に関わりました。その後は建設分野で経験を重ね、1987年に建設政務次官、1991年に衆議院建設委員長を務めます。

1996年の選挙制度改革後初の衆院選では、新設された福岡7区から出馬して6回目の当選。同年11月7日に発足した第2次橋本内閣で運輸大臣として初入閣しました。

在任中の1997年1月には、日本海でロシア船籍タンカー「ナホトカ号」が沈没し、大量の重油が沿岸へ流出しました。古賀氏は運輸省の「ナホトカ号海難流出油災害対策本部長」として対応にあたります。

運輸相の在任は1997年9月の内閣改造まででした。その後は閣内ではなく、自民党の国会・党運営を担う役職へ比重を移していきます。

国対委員長から幹事長へ、「加藤の乱」で分かれた宏池会

1998年には自由民主党国会対策委員長に就任しました。国会で野党との折衝を担う役職で、党内調整を含む政治運営の前面に立つようになります。

2000年11月、森喜朗内閣への不信任案をめぐり、当時の宏池会会長・加藤紘一氏と山崎拓氏が内閣への対決姿勢を示した、いわゆる「加藤の乱」が起きました。古賀氏は加藤氏と別行動を取り、宏池会は分裂します。

同年12月、古賀氏は自由民主党幹事長に就任しました。後年の本人の回想では、党総裁選で地方の声をより反映させることなどを幹事長時代の課題として挙げています。

2005年、衆議院在職25年の表彰を受けた際には、政治家の仕事について次のように述べました。

現実を直視してともに痛みを分かち合って未来への足固めをすること

出典:国会会議録「第162回国会 衆議院本会議 第19号」(2005年4月14日)

2006年には宏池会会長となり、かつて分かれた勢力の再結集を進めます。2008年5月には古賀派と谷垣禎一氏のグループが再び一つになりました。

国民とともに歩む宏池会が目指す理想の政治の姿です

出典:古賀誠公式サイト「宏池会」(公開日記載なし)
選挙歴 古賀誠の選挙歴
横にスクロールできます
年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第35回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
初出馬。5位当選者との差は4,548票。
旧福岡 3区 自由民主党 落選 52,535票 6位
第36回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
初当選。
旧福岡 3区 自由民主党 当選 85,822票 1位
第37回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
2期目。按分票を含む。
旧福岡 3区 自由民主党 当選 72,091.130票 3位
第38回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
3期目。按分票を含む。
旧福岡 3区 自由民主党 当選 92,807.270票 2位
第39回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
4期目。按分票を含む。
旧福岡 3区 自由民主党 当選 86,601.350票 2位
第40回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
5期目。按分票を含む。
旧福岡 3区 自由民主党 当選 90,980.300票 2位
第41回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
小選挙区制移行後初の総選挙。6期目。
福岡 7区 自由民主党 当選 90,432票 1位
第42回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
比例九州ブロックとの重複立候補。7期目。
福岡 7区 自由民主党 当選 124,024票 1位
第43回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
比例九州ブロックとの重複立候補。8期目。
福岡 7区 自由民主党 当選 119,837票 1位
第44回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
比例九州ブロックとの重複立候補。9期目。
福岡 7区 自由民主党 当選 112,420票 1位
第45回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
10期目。最後の衆議院議員選挙。
福岡 7区 自由民主党 当選 128,137票 1位

道路政策と福岡県南部のインフラ整備

古賀氏の政治経歴で大きな比重を占めた分野の一つが道路・社会資本整備です。2001年には自民党道路調査会長に就任しました。

地元のみやま市は、名誉市民として古賀氏を紹介する中で、有明海沿岸道路、九州自動車道のみやま柳川インターチェンジ、国道443号バイパスなどの整備への貢献を挙げています。道の駅みやまも、こうした交通網の変化と重なる時期に開業しました。

道路整備を、都市部と地方の条件差を縮め、物流や地域間交流を支える基盤と位置づけてきたのが古賀氏の立場でした。国会議員引退後も道路行政との関わりは途切れず、全国道路利用者会議で活動を続けます。

政治人生の転機 古賀誠の政治人生の転機
01
1979年~1980年
初出馬の惜敗から7カ月後に初当選
1979年総選挙で旧福岡3区に初出馬して次点となり、1980年の総選挙では85,822票を得てトップ当選した。
なぜ転機なのか 長年の秘書生活から、自ら議席を持つ国政政治家へ立場が変わったため。
02
1996年11月
運輸大臣として初入閣
第2次橋本内閣で運輸大臣に就任した。
なぜ転機なのか 建設・交通分野を歩んできた議員から、国の運輸行政を担う閣僚へ進んだため。
03
2000年
「加藤の乱」と宏池会分裂、幹事長就任
森内閣不信任案をめぐる「加藤の乱」で宏池会が分裂する中、加藤紘一氏と別行動を取り、同年12月に自民党幹事長へ就任した。
なぜ転機なのか 派閥内の立場が大きく変化し、その後の党運営と宏池会再編に深く関わる契機となったため。
04
2012年11月
32年の国会議員生活を終えて政界引退
次期衆院選への不出馬を表明し、10期に及んだ衆議院議員としての活動を終えた。
なぜ転機なのか 選挙政治から退き、道路・遺族・平和をめぐる社会活動や発言を続ける立場へ移ったため。

古賀誠氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

戦争体験と平和国家

高齢者保健・社会保障

整備新幹線と地域交通基盤

このテーマの関連発言をさらに見る 1件
衆議院 運輸委員会 第10号

整備新幹線を高速交通体系のネットワークを形成する国家的プロジェクトの一つとして位置づけた。

国会会議録で発言全文を見る

ナホトカ号事故と油防除体制

このテーマの関連発言をさらに見る 1件
衆議院 運輸委員会 第18号

油回収船の日本海への配置を含め、事故後の検証を踏まえて油防除体制を改善する必要性を述べた。

国会会議録で発言全文を見る

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

戦没者遺族の支援と日本遺族会

父を戦争で失った古賀氏は、戦没者遺族に関する活動にも長く携わりました。2002年に日本遺族会会長、翌2003年には福岡県遺族連合会会長に就きます。

日本遺族会では、遺族年金や特別弔慰金など戦没者遺族の処遇改善に関わる活動を進めました。同時に、戦没者の追悼や戦争体験の継承を政治活動の重要なテーマとして扱いました。

古賀氏の平和に関する発言は、単に国会議員時代だけのものではありません。引退後も自身を「戦争遺児」と位置づけ、幼いころに目にした母の生活や父の戦死を語り続けています。

2009年に10回目の当選、2012年に政界を引退

2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、自民党が全国的に大きく議席を減らす中、福岡7区で128,137票を得て当選しました。これが古賀氏にとって10回目で最後の衆院選当選となります。

2012年11月17日、次の衆院選には立候補しない意向を表明しました。後継には、秘書を務めていた藤丸敏氏を指名します。

古賀氏は後年、政治家としての活動をおおむね30年間で区切る構想を以前から持っていたと説明しています。72歳を迎え、32年余り続いた国会議員生活に自ら区切りをつけました。

一貫して自由民主党で、国会で働いたことをたいへん喜びとしています

出典:NetIB-NEWS「自民・古賀誠元幹事長引退、後継に藤丸敏氏を指名」(2012年11月18日)

引退後は道路、遺族、平和をめぐる活動を継続

国会議員を退いた後も、社会活動から完全に離れたわけではありません。2015年には全国道路利用者会議会長に就任し、長く携わってきた道路整備・道路利用の分野で活動を続けました。

2016年3月には、旧瀬高町を含むみやま市から名誉市民として顕彰されています。市は国政での活動に加え、地域交通網の整備や戦没者遺族に関する活動などを功績として挙げました。

全国道路利用者会議では2025年5月、会長職を佐藤信秋氏へ引き継ぎました。2026年6月には同会最高顧問として自治体首長との面談が公的日程に記録されています。

日本遺族会でも名誉顧問として活動してきました。選挙政治からは退いた一方、戦争体験を次の世代にどう伝えるかというテーマについては、80代半ばになってもメディアの取材に応じています。

憲法9条と安全保障をめぐる近年の発言

古賀氏は近年、平和と安全保障について明確な立場を示しています。2026年5月のインタビューでは、憲法9条を守るべきだとの考えを示し、武力の保有だけで国家の強さを測る考え方に疑問を呈しました。

また、政治家には戦争と平和の歴史を検証してほしいと述べています。これは自民党全体の政策を代表するものではなく、古賀氏個人が戦争遺児として長年表明してきた政治姿勢です。

映像で見る古賀誠氏の戦争体験と憲法観

2026年5月の「報道特集」では、幼少期の戦争体験から憲法9条、安全保障に対する考えまで、古賀氏自身がまとまった時間を使って語っています。

古賀誠氏の現在情報

2026年9月24日 時点
現在の所属 自由民主党
現在の主な役職
全国道路利用者会議最高顧問 日本遺族会名誉顧問

2012年に国政を引退した後も、道路関係団体や戦没者遺族に関わる活動を続けている。2026年には戦争体験や憲法、平和をめぐるインタビューにも応じている。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
報道・インタビュー
その他の参考資料

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA