大田昌秀の経歴・学歴と生い立ち|沖縄戦研究から沖縄県知事、参議院議員まで

大田昌秀 
ひと目でわかるプロフィール 大田昌秀
おおた まさひで
出身地
沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町具志川)
初当選
1990年(第6回沖縄県知事選挙)
最終学歴
シラキュース大学大学院修了
主な前職
大学教員・研究者
政界入り
専門職から
生年月日 1925年6月12日
没年月日 2017年6月12日

大田昌秀氏は、沖縄戦を学徒兵として経験した研究者であり、1990年から2期8年にわたって沖縄県知事を務めた政治家です。知事退任後には平和研究の拠点を設け、2001年からは参議院議員として国政にも携わりました。

久米島で生まれ、沖縄師範学校、早稲田大学、米国シラキュース大学大学院へと進み、琉球大学教授となった大田氏。その人生をたどると、政治家になるまでに長い研究者時代があったことが分かります。

大田昌秀氏を理解する3つのポイント
  1. 沖縄戦を学徒兵として経験し、戦後は沖縄戦やメディア、平和問題を研究しました。
  2. 琉球大学教授から65歳で政界へ転じ、沖縄県知事として2期8年県政を担いました。
  3. 知事退任後は研究所を設立し、2001年から2007年まで参議院議員を務めました。

大田昌秀の生い立ち|久米島で生まれ、沖縄師範学校へ

大田昌秀氏は1925年6月12日、沖縄県の久米島具志川村、現在の久米島町具志川に生まれました。

伊藤塾が公開している追悼資料には、働く母を支えながら育ち、学業成績は優秀だったものの進学資金が足りず、母校の用務員として働いた時期があったことも記されています。

1941年、大田氏は沖縄師範学校へ入学しました。当時の師範学校は教員養成を担う学校でしたが、在学中に太平洋戦争の戦局が沖縄へ迫っていきます。

大田昌秀の学歴|沖縄戦で「千早隊」に動員された学生時代

学歴一覧大田昌秀の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
師範学校沖縄師範学校教員養成旧制度・比較不可1941年入学/沖縄戦で学徒動員
学校沖縄文教学校―旧制度・比較不可1946年
学校沖縄外国語学校―旧制度・比較不可1947年
大学早稲田大学―学部不明のため数値を置かない1950年入学
大学院シラキュース大学大学院ジャーナリズム日本式の偏差値なし1956年修了

※旧制学校と海外大学院を現在の日本式偏差値へ換算していません。早稲田大学は本文・ACFで学部を特定できないため、大学全体の数値を置くことも避けています。

1945年、大田氏は沖縄師範学校の学生として鉄血勤皇隊に学徒動員されました。沖縄県公文書館の年譜では、情報宣伝部隊「千早隊」に所属したと記録されています。

同年10月に捕虜となり、戦争を生き延びました。同じ学校から動員された生徒の中には多くの犠牲者が出ています。

戦後は1946年に沖縄文教学校、1947年に沖縄外国語学校へ進みました。後年のインタビューでは、沖縄戦で沖縄が「捨て石」にされた状況をなぜ生んだのか、その原因を究明することを使命と考え、学者の道を選んだと語ったことが伝えられています。

早稲田大学から米国へ、ジャーナリズムを学ぶ

1950年に早稲田大学へ入学し、卒業後の1954年には米国のシラキュース大学大学院へ留学しました。専攻したのはジャーナリズムです。

1956年に大学院を修了すると、琉球大学財団に勤務。1958年に琉球大学講師となり、その後は東京大学新聞研究所でも研究を重ねました。

1968年には琉球大学教授に就任。ハワイ大学東西センターでの研究や、フルブライト研究員としてアリゾナ州立大学で研究する機会も得ています。1983年には琉球大学法文学部長を務めました。

政治家として知られるようになるまで、大田氏は数十年にわたって大学と研究の世界に身を置いていました。沖縄戦、戦後沖縄、メディアなどを扱った研究活動は、知事就任後も続く大田氏のもう一つの顔でした。

人生年表 大田昌秀さんの歩み
1925年6月12日
沖縄県久米島具志川村で生まれる
現・久米島町具志川
1941年
沖縄師範学校に入学
1945年
鉄血勤皇隊として学徒動員
情報宣伝部隊「千早隊」に所属し、10月に捕虜となる
1946年
沖縄文教学校に入学
1947年
沖縄外国語学校に入学
1950年
早稲田大学に入学
1954年
米国シラキュース大学大学院へ留学
ジャーナリズムを専攻
1956年
シラキュース大学大学院を修了
琉球大学財団に勤務
1958年
琉球大学講師に就任
1963年
東京大学新聞研究所で研究
2年間
1968年
琉球大学教授に就任
1973年
ハワイ大学東西センターで研究
1年間
1978年
フルブライト研究員としてアリゾナ州立大学で研究
1年間
1983年
琉球大学法文学部長に就任
1990年11月18日
沖縄県知事選挙で初当選
研究者から県政へ転じる
1994年11月20日
沖縄県知事選挙で再選
2期目へ
1995年6月23日
「平和の礎」が完成
国籍や軍人・民間人の別なく沖縄戦などの戦没者を刻銘
1995年
米軍用地強制使用手続きの代理署名を拒否
国との職務執行命令訴訟へ
1998年11月15日
沖縄県知事選挙で落選
2期8年の県政を終える
1999年
大田平和総合研究所を設立
のちの沖縄国際平和研究所
2001年7月29日
第19回参議院議員通常選挙で初当選
社会民主党・比例代表
2007年
参議院議員を退任
1期6年
2013年
NPO法人沖縄平和研究所を設立
2017年6月12日
死去
92歳。同年7月26日に県民葬

大田昌秀の経歴|65歳で知事選へ、研究者から県政に転じる

1990年11月、大田氏は沖縄県知事選挙に初めて立候補しました。沖縄県選挙管理委員会の記録では届出時党派は「知事選革新共闘会議」。現職の西銘順治氏との選挙で330,982票を獲得し、65歳で初当選しました。

選挙後の振る舞いにも、戦争体験を持つ大田氏らしさが表れました。琉球朝日放送は、当選時にバンザイを避けた理由について、戦争を思い起こさせるためだったと伝えています。

「大げさにバンザイしなくていいんじゃないか」

出典:琉球朝日放送「7人の知事 4代目 大田昌秀」(2018年9月18日)

1994年11月の知事選では無所属で再選。2期目の県政に入りました。

「平和の礎」と記録を残す県政

大田県政で形になった事業の一つが、糸満市摩文仁の「平和の礎」です。構想の検討は1991年に始まり、沖縄戦終結50周年に当たる1995年6月23日に完成しました。

「平和の礎」は、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった人々を刻銘する記念碑です。沖縄県は、戦没者の追悼、戦争体験の教訓の継承、平和を考える場とする趣旨を掲げています。

在任中にはこのほか、沖縄県立平和祈念資料館の移転新築や沖縄県公文書館の設置を進めました。公文書館は1995年8月に開館しています。

戦争体験を記憶だけにとどめず、氏名、資料、公文書という形で残す事業が同じ県政期に進められました。

1995年、米軍用地の代理署名を拒否

1995年9月、米海兵隊員らによる少女暴行事件が発生しました。翌月の県民総決起大会には約8万5000人が集まり、基地問題や日米地位協定をめぐる抗議が広がりました。

その時期、大田氏は米軍用地を強制使用する手続きで求められた代理署名に応じない方針を示します。

「国に対して署名・押印は出来ない旨の通知をすることにしています」

出典:RBC琉球放送「辺野古“代執行”めぐり揺らぐ『地方自治』」(2023年11月3日)

国は知事に職務の執行を求める訴訟を起こしました。福岡高裁那覇支部は1996年3月、国側の請求を認め、大田氏は上告します。

最高裁大法廷は同年8月28日、大田知事側の上告を棄却しました。司法判断としては沖縄県側の敗訴が確定しています。

普天間飛行場の返還合意と海上ヘリポート案

代理署名をめぐる対立が続く一方、1996年4月には日米両政府が普天間飛行場の全面返還で合意しました。同年12月のSACO最終報告では、十分な代替施設が完成し運用可能となった後に返還する条件が示されました。

1997年には政府から沖縄本島東海岸沖の海上施設案が示されます。同年12月の名護市民投票では海上ヘリポート建設への反対票が賛成票を上回り、大田氏は1998年2月、海上ヘリポート案に反対する考えを表明しました。

大田氏は国内だけでなく米国側にも直接働きかけていました。沖縄県公文書館によると、1992年から1998年までほぼ毎年訪米し、米政府・軍関係者や研究者らに沖縄の基地問題を説明しています。

基地をめぐる交渉では、返還を求めることと、返還条件として示される新たな施設をどう扱うかが別の問題として続きました。

1998年の落選後、再び研究の場へ

1998年11月の沖縄県知事選で、大田氏は3選を目指して立候補しましたが、稲嶺惠一氏に敗れました。2期8年続いた大田県政はここで終わります。

県庁を離れた翌1999年、大田平和総合研究所を設立しました。のちに沖縄国際平和研究所となる研究拠点です。

「沖縄戦と基地問題のほか平和問題などの研究に取り組んできました」

出典:伊藤塾「元沖縄県知事 故 大田昌秀先生を偲んで」(公開日記載なし)

知事を退任したことで、沖縄戦や平和を研究する仕事が終わったわけではありませんでした。政治の現場を離れた後は、再び調査、執筆、講演を行う立場へ戻っています。

76歳で参議院議員に、基地返還後の経済を問う

2001年7月、第19回参議院議員通常選挙に社会民主党から比例代表で立候補しました。396,077票を得て当選し、76歳で国政へ進出します。

参議院では沖縄の基地問題を引き続き取り上げました。2006年1月には「沖縄の米軍基地の返還と跡地利用による経済効果等に関する質問主意書」を提出しています。

質問主意書では、返還された米軍施設跡地で事業所や雇用が増えた事例を挙げ、基地が存在する場合と返還後の経済効果を具体的な数値で比較するよう政府に求めました。

「返還跡地の利用が進めば、はるかに大きな経済効果を生み出す」

出典:参議院「沖縄の米軍基地の返還と跡地利用による経済効果等に関する質問主意書」(2006年1月25日)

参議院議員は1期6年務め、2007年に退任しました。

選挙歴 大田昌秀の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第6回沖縄県知事選挙
定数:1 比例復活:該当なし
初出馬・初当選。現職の西銘順治は300,917票。
沖縄県 知事選革新共闘会議 当選 330,982票 1位
第7回沖縄県知事選挙
定数:1 比例復活:該当なし
再選。
沖縄県 無所属 当選 330,601票 1位
第8回沖縄県知事選挙
定数:1 比例復活:該当なし
稲嶺惠一が374,833票で当選。
沖縄県 無所属 落選 337,369票 2位
第19回参議院議員通常選挙
定数:48 比例復活:比例代表
社会民主党は比例代表で3議席を獲得。大田昌秀は参議院議員として1期6年在任。
比例代表 社会民主党 当選 396,077票 社会民主党候補者内2位

大田昌秀の政策・政治姿勢|戦後処理と沖縄の自立

知事在任中の仕事は、基地問題と平和祈念事業だけではありません。沖縄県公文書館は、大田県政が戦争マラリア犠牲者の補償や厚生年金の格差是正など、戦後処理問題にも取り組んだと整理しています。

経済・地域政策では「国際都市形成構想」を策定し、沖縄の自立発展を目指す将来像を政府に示しました。

基地については、段階的な全面返還を盛り込んだ「基地返還アクションプログラム」を国に提示しています。返還要求だけでなく、返還後の土地利用や産業、雇用をどう構築するかも県政上の課題として扱いました。

参議院議員となってから返還跡地の経済効果を質問したことも、このテーマが知事退任後まで続いていたことを示しています。

晩年まで問い続けた沖縄の戦後

2013年にはNPO法人沖縄平和研究所を設立し、晩年まで沖縄戦、基地、平和をめぐる研究を続けました。

2015年、日本記者クラブ会報の執筆者が大田氏を取材した際、大田氏はインタビュー中に同じ問いを何度も投げかけたといいます。

「沖縄は日本だと思うかね」

出典:日本記者クラブ「大田昌秀さん 元沖縄県知事/『沖縄は日本か』問い続け」(2023年12月)

大田氏は2017年6月12日、那覇市内の病院で肺炎と呼吸不全のため亡くなりました。92歳。その日は自身の誕生日でもありました。同年7月26日には沖縄県民葬が営まれています。

政治人生の転機 大田昌秀の政治人生の転機
01
1945年
沖縄戦で鉄血勤皇隊に動員
沖縄師範学校在学中に学徒動員され、情報宣伝部隊「千早隊」に所属しました。
なぜ転機なのか 戦後、大田氏は沖縄戦の記録・研究を長く続け、研究者としての主要テーマとなりました。
02
1990年11月
研究者から沖縄県知事へ
65歳で初めて沖縄県知事選に立候補し、330,982票で初当選しました。
なぜ転機なのか 琉球大学教授として歩んできた研究者人生から、県政を担う政治家へ転じました。
03
1995年~1996年
代理署名拒否と国との訴訟
米軍用地の強制使用手続きに必要な代理署名を拒否し、国との職務執行命令訴訟に発展しました。
なぜ転機なのか 基地行政をめぐって国と最高裁まで争う当事者となりました。
04
1998年~2001年
知事退任後、研究活動から国政へ
1998年の知事選落選後、1999年に大田平和総合研究所を設立し、2001年には参議院議員に当選しました。
なぜ転機なのか 県政を離れた後も研究を継続しながら、国会議員として再び公職に就きました。

大田昌秀氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

沖縄戦の教訓と住民保護

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参議院 イラク人道復興支援活動等及び武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会

旧日本軍が沖縄などで接収した土地の返還・補償問題を取り上げ、戦後処理として未解決の問題が残っていると政府に対応を求めました。

国会会議録で発言全文を見る

沖縄の米軍基地負担と整理・縮小

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参議院 外交防衛委員会

在沖海兵隊の削減や県外移転について質問し、事件・事故や基地負担の軽減という観点から政府の方針を確認しました。

国会会議録で発言全文を見る

普天間・米軍訓練施設と住民の安全

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参議院 外交防衛委員会

普天間飛行場の代替施設をめぐり、沖縄県内の自治体や県議会、市民団体の反対状況を示しながら、政府に対応を質問しました。

国会会議録で発言全文を見る

基地返還跡地の利用と沖縄経済

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参議院 外交防衛委員会

返還済みの恩納通信所跡地について、実際に利用されている面積や跡地利用の進捗状況を政府に質問しました。

国会会議録で発言全文を見る
参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会

普天間飛行場などの駐留軍用地跡地利用に充てられる経費について具体的な予算額と事業の進捗を確認しました。

国会会議録で発言全文を見る

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

映像で振り返る大田昌秀氏

沖縄県公式チャンネルでは、2017年の県民葬で上映された映像を公開しています。研究者時代から知事在任期までの歩みを、当時の映像とともに確認できます。

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参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
報道・インタビュー

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