稲嶺惠一の経歴・学歴と生い立ち|経済界から沖縄県知事へ、沖縄サミットと普天間問題の8年間

稲嶺惠一
ひと目でわかるプロフィール 稲嶺惠一
いなみね けいいち
出身地
中国・大連市(当時の関東州大連市)
初当選
1998年(沖縄県知事選挙)
最終学歴
慶應義塾大学経済学部卒業
主な前職
会社員、会社経営者
政界入り
民間企業から
生年月日 1933年10月14日

稲嶺惠一氏は、沖縄経済界で企業経営や経済団体の運営に長く携わった後、1998年に沖縄県知事へ初当選し、2期8年にわたって県政を担った人物です。

知事在任中には九州・沖縄サミットが開かれた一方、米軍普天間飛行場の移設では、名護市辺野古への移設を条件付きで受け入れ、その後も政府との交渉を続けました。経済人として歩んだ前半生から、沖縄県政の中心に立つまでをたどります。

稲嶺惠一氏を理解する3つのポイント
  1. 旧満州・大連に生まれ、戦争と引き揚げを経験した後、那覇高校、慶應義塾大学へ進みました。
  2. いすゞ自動車、琉球石油を経て沖縄経済界の要職を担い、65歳で初めて沖縄県知事選に立候補しました。
  3. 知事として沖縄サミット、沖縄振興に取り組む一方、普天間飛行場移設では軍民共用・15年使用期限を条件とする県内移設案を進めました。

稲嶺惠一の生い立ち|大連で生まれ、戦争と引き揚げを経験した少年時代

稲嶺惠一氏は1933年10月14日、当時の関東州大連市、現在の中国・遼寧省大連市で生まれました。

父は後に琉球石油を創業し、参議院議員も務めた稲嶺一郎氏です。一郎氏は南満州鉄道で働き、東南アジアにも駐在していました。

稲嶺氏自身の人生にも、戦争は早くから入り込みました。1943年、父が勤務していたバンコクから日本へ向かう途中、乗っていた旅客船が米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。

一行は貨物船に救助されました。後年、この経験について稲嶺氏は当時の印象を短い言葉で振り返っています。

「とてもアメリカにはかなわない」

出典:琉球新報「平和への思い、世界へ 稲嶺恵一元知事 戦中戦後体験、原動力に」(2021年6月19日)

敗戦後の沖縄は米国統治下に置かれました。稲嶺氏は沖縄で学校生活を送り、那覇高校へ進学します。

稲嶺惠一の学歴|那覇高校から慶應義塾大学へ

学歴一覧稲嶺惠一の学校歴
横にスクロールできます
区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
高校沖縄県立那覇高等学校―最新同年度値を確認できた場合のみ数値掲載―
大学慶應義塾大学経済学部67.5(2027年度参考)卒業

※偏差値・難易度は稲嶺氏の在学当時ではなく現在の目安です。

早稲田大学歴史館には、稲嶺氏が那覇高校2年から3年だった1951~1952年に同級生らが寄せた寄せ書きが残っています。そこには、戦後間もない沖縄から東京へ進学する若者を送り出す同級生たちの言葉が記されていました。

東京へ渡った稲嶺氏は、慶應義塾大学経済学部へ進学。大学時代には母方の親族と暮らした時期もありました。

1957年に大学を卒業すると、父が創業した琉球石油へ直接入るのではなく、まずいすゞ自動車に就職します。

稲嶺惠一の経歴|いすゞ自動車から琉球石油へ、沖縄経済界の中心へ

いすゞ自動車では輸出関係の業務などを経験しました。沖縄へ戻って琉球石油に入ったのは1973年です。

その3年後の1976年には社長に就任。やがて同社の経営だけでなく、沖縄経済同友会、沖縄県経営者協会、沖縄懇話会など、県内経済界を横断する活動へ関わるようになります。

1990年代には、沖縄セルラー電話、日本トランスオーシャン航空などの経営にも関わりました。名桜大学設立時にも、りゅうせき社長・沖縄県経営者協会会長として設立メンバーに名を連ねています。

基地問題とも、知事選以前から接点がありました。1996年に政府が設置した「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」では、りゅうせき会長として委員を務めました。

企業経営、経済団体、基地所在地域の振興という複数の立場を経験した後、1998年に県知事選へ進みます。

65歳で初出馬、1998年の沖縄県知事選で初当選

1998年の沖縄県知事選は、現職の大田昌秀氏と新人の稲嶺氏を中心に争われました。

前年には名護市で、普天間飛行場返還に伴う海上ヘリポート建設の是非を問う市民投票が行われ、反対票が賛成票を上回っていました。大田県政は政府の海上ヘリポート案を拒否しています。

稲嶺氏は、代替施設を永久的な軍事施設とせず、一定期間後には民間利用へ転換する軍民共用空港構想を掲げました。

11月15日の投開票で、374,833票を獲得して初当選。同年12月10日、第5代沖縄県知事に就任しました。

普天間飛行場移設で示した「条件付き」の県内移設

知事就任後、避けて通れなかったのが米軍普天間飛行場の返還・移設問題でした。

県は1999年11月、移設候補地をキャンプ・シュワブ水域内の名護市辺野古沿岸域と公表しました。

ただし、稲嶺県政が示した受け入れは無条件ではありません。軍民共用空港とし、米軍による使用について15年の期限を求めることなどを条件としていました。

県議会で稲嶺氏は、移設候補地選定の基準として、基地の整理縮小、住民の安全や騒音軽減、将来民間航空に利用できること、地域活性化につながることなどを説明しています。

この方針は、辺野古への移設そのものに反対する立場とは異なりました。一方で、政府案をそのまま受け入れる立場でもなく、使用期限や地域振興などの条件を政府側へ求め続けました。

2000年九州・沖縄サミットを迎える

稲嶺県政を象徴するもう一つの出来事が、2000年7月の九州・沖縄サミットです。

首脳会合は名護市の万国津梁館で開催され、米国のビル・クリントン大統領をはじめ各国首脳が沖縄を訪れました。

稲嶺氏は後年、沖縄でサミットを開催した影響について次のように振り返っています。

「恩恵ばかりだった。」

出典:琉球新報「沖縄サミットは何をもたらしたのか」(2023年5月3日)

具体例として挙げたのが、かりゆしウェアや泡盛、ホテルなどの観光関連産業でした。また、沖縄の自然や文化が世界へ発信されたことも大きかったとしています。

サミット開催に合わせて整備された万国津梁館などは、その後も沖縄観光や国際交流の施設として利用されています。

沖縄振興を「補助金」だけで終わらせない考え

知事時代のもう一つの柱が沖縄振興でした。2002年度から始まった新たな沖縄振興計画の時期を担い、観光、情報通信、産業振興、離島対策などを進めました。

稲嶺氏が後年繰り返し語ったのが、単年度の資金ではなく、沖縄が自ら産業を育てられる制度や仕組みの必要性です。

また、沖縄科学技術大学院大学につながる構想が具体化したのも稲嶺県政期でした。大学創設後、OIST側も稲嶺前知事を、構想の進展を支えた沖縄側の関係者として挙げています。

観光についても、単に来県者数を増やすだけでなく、自然や文化を生かした観光、国際交流を通じた沖縄の価値向上を重視しました。

2002年に再選、普天間問題は解決しないまま2期目へ

2002年11月17日の県知事選では359,604票を獲得して再選しました。

この選挙でも普天間飛行場代替施設の15年使用期限を掲げています。

しかし、代替施設をめぐる日本政府、米国、沖縄県、地元自治体の調整はその後も難航しました。

2004年8月には沖縄国際大学構内へ米軍ヘリコプターが墜落します。稲嶺氏は県議会で、市街地にある普天間飛行場の危険性が改めて示されたとして、危険性の早急な除去を「緊急かつ最大の課題」と位置づけました。

知事任期終盤には、日米両政府がキャンプ・シュワブ沿岸部にV字形の滑走路を設ける案を進めます。これは稲嶺県政がそれまで求めてきた軍民共用・15年使用期限という構想とは異なるものでした。

稲嶺氏は政府との協議そのものを拒むのではなく、県側の条件や地元との協議を求めました。2005年、日本記者クラブでは初当選当時の県政運営について、次のように表現しています。

「ゼロからの出発でなく、マイナスからのスタートだった」

出典:日本記者クラブ「稲嶺恵一・沖縄県知事」(2005年12月20日)

2006年、3選へ出馬せず知事を勇退

2006年6月29日、稲嶺氏は県議会で次の県知事選へ立候補しないことを正式に表明しました。

「11月の知事選挙には出馬しないことを決意しました」

出典:琉球朝日放送「稲嶺知事 正式に勇退宣言」(2006年6月29日)

1998年から続いた知事在任は2期8年で終了し、同年12月9日に任期を終えました。

退任後はりゅうせき参与などの立場で、沖縄経済、基地問題、沖縄振興について発言を続けています。2017年度には地方自治部門で沖縄県功労者に選ばれました。

退任後も語り続ける「対話」と沖縄振興

知事を退いた後の稲嶺氏は、県内政治の現職ポストへ戻ることはありませんでしたが、沖縄の基地問題や振興策について、インタビューや講演で自身の経験を伝え続けています。

2019年の県民投票をめぐるインタビューでは、基地問題を県内の勝敗だけで考えることへの懸念を示しました。

「勝った負けたでは何も生まない」

出典:琉球新報「私の視座 2・24県民投票」(2019年2月)

2021年には沖縄振興について、離島が多く高コスト構造を抱える沖縄の事情を踏まえた制度設計を求めました。基地問題と振興を単純に交換条件として扱うのではなく、沖縄の地理的条件や産業構造を踏まえた政策が必要だという考えを示しています。

人生年表 稲嶺惠一さんの歩み
1933年10月14日
旧関東州大連市で生まれる
現在の中国・遼寧省大連市
1943年
日本へ向かう途中に乗船が魚雷攻撃を受け沈没
貨物船に救助される
1950年代初頭
沖縄県立那覇高等学校に在学
1957年
慶應義塾大学経済学部を卒業
1957年
いすゞ自動車に入社
輸出関連業務などに従事
1973年
琉球石油に入社
現在の株式会社りゅうせき
1976年
琉球石油社長に就任
1989年
沖縄経済同友会代表幹事に就任
1991年
沖縄県経営者協会会長に就任
1996年
沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会委員に就任
りゅうせき会長として参加
1998年11月15日
沖縄県知事選挙で初当選
1998年12月10日
沖縄県知事に就任
1999年11月
普天間飛行場の移設候補地として辺野古沿岸域を公表
2000年7月
九州・沖縄サミットが開催
沖縄県知事として各国首脳を迎える
2002年11月17日
沖縄県知事選挙で再選
2006年6月
次期知事選へ出馬しないことを表明
2006年12月9日
沖縄県知事を退任
2期8年
2017年
沖縄県功労者表彰を受ける
地方自治部門
2025年
『苦悩の島・沖縄 二つの和解』刊行

稲嶺惠一氏が重視してきた政策・政治姿勢

米軍基地負担の軽減

知事時代を通じて、沖縄への米軍基地集中を主要課題として扱いました。普天間飛行場については辺野古への移設を条件付きで受け入れた一方、政府案に対して県側の条件や地元との協議を求め続けています。

軍民共用と15年使用期限

代替施設については、恒久的な米軍専用施設とするのではなく、軍民共用とし、米軍使用に期限を設け、その後の民間利用につなげる構想を示しました。

沖縄の自立型経済

経済界出身の知事として、観光、情報通信、研究開発、国際交流などを通じ、沖縄の地理的・文化的な特徴を産業へ結び付けることを重視しました。

離島振興

退任後も、広い海域に多数の有人離島を抱える沖縄では、輸送費や生活費など本島とは異なる条件への対応が必要だと訴えています。

国際交流と平和発信

九州・沖縄サミットや沖縄平和賞などを通じ、基地の島という側面だけでなく、沖縄の歴史、文化、平和への願いを国外へ発信する機会を増やしました。

政府との対話と県側の主張

政府と協議する姿勢を取りながらも、基地問題では県民や地元の理解を条件として挙げました。退任後も、政府と沖縄の対立を固定化せず、交渉可能な接点を探る必要性を語っています。

本人の言葉で振り返る沖縄復帰と県政

稲嶺氏本人が、復帰後の沖縄、知事時代、基地問題についてまとまった時間で語っている映像として、日本記者クラブの「沖縄復帰50年」シリーズがあります。

稲嶺惠一氏の議会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の議会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

普天間飛行場の危険性除去と基地負担軽減

沖縄振興と自立型経済・雇用

平和発信と沖縄平和賞

観光・情報通信産業を軸とする沖縄振興

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

2025年には、読売新聞での回顧企画を加筆した『苦悩の島・沖縄 二つの和解』を刊行しました。戦争、米国統治、本土復帰、基地問題、知事時代の交渉を、自身の経験から振り返る内容です。

90歳を超えてからも講演や取材への対応を続けており、2026年3月には「沖縄経済の振り返りと展望」をテーマに講演しています。

稲嶺惠一氏の現在情報

2026年9月27日 時点
現在の所属 政党所属なし/株式会社りゅうせき参与

2006年に知事3選へ出馬せず勇退。2026年時点でも、沖縄経済や基地問題などをテーマに講演・取材対応を続けている。2026年3月には「株式会社りゅうせき参与、元沖縄県知事」として沖縄銀行系の講演会に登壇した。

関連書籍
稲嶺惠一さんの著書・関連書籍
苦悩の島・沖縄 二つの和解
書籍
苦悩の島・沖縄 二つの和解
著者:稲嶺 惠一/飯塚 恵子 / 出版社:ウェッジ / 発売日:2025年08月27日頃
沖縄の自立と日本 「復帰」40年の問いかけ
書籍
沖縄の自立と日本 「復帰」40年の問いかけ
著者:大田 昌秀/新川 明/稲嶺 惠一/新崎 盛暉 / 出版社:岩波書店 / 発売日:2013年08月09日頃
我以外皆我が師 稲嶺惠一回顧録
書籍
我以外皆我が師 稲嶺惠一回顧録
著者:稲嶺惠一/琉球新報社 / 出版社:琉球新報社 / 発売日:2011年01月

※商品リンクにはアフィリエイトリンクを含みます。

選挙歴 稲嶺惠一の選挙歴
横にスクロールできます
年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
沖縄県知事選挙
定数:1 比例復活:該当なし
新人。立候補届出時の職業は沖縄県経営者協会顧問。
沖縄県 無所属 当選 374833 1位
沖縄県知事選挙
定数:1 比例復活:該当なし
現職として再選。
沖縄県 無所属 当選 359604 1位
政治人生の転機 稲嶺惠一の政治人生の転機
01
1998年
沖縄経済界から県知事選へ
りゅうせきをはじめ沖縄経済界で長く活動した後、沖縄県知事選へ初出馬し当選。
なぜ転機なのか 企業経営者・経済団体幹部から、県政の最高責任者へ立場が変わったため。
02
1999年
普天間飛行場の移設候補地を辺野古沿岸域と決定
軍民共用や使用期限などの条件を伴う移設構想を進めた。
なぜ転機なのか その後長期化する普天間飛行場移設問題で、稲嶺県政の立場を具体化した出来事だから。
03
2000年
九州・沖縄サミットを県知事として迎える
名護市を首脳会合会場とする九州・沖縄サミットが開催された。
なぜ転機なのか 沖縄を国際会議の開催地として世界へ発信する県政上の大型事業となったため。
04
2006年
3選へ出馬せず2期8年で勇退
同年6月、次期沖縄県知事選へ立候補しないことを表明した。
なぜ転機なのか 2期8年続いた知事としての政治生活を終えたため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
報道・インタビュー
その他の参考資料

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA