加藤紘一の経歴・学歴と生い立ち|外務官僚から自民党幹事長、「加藤の乱」と国政復帰まで

加藤紘一
ひと目でわかるプロフィール 加藤紘一
かとう こういち
出身地
山形県鶴岡市
初当選
1972年(第33回衆議院議員総選挙)
最終学歴
ハーバード大学修士課程修了
主な前職
官僚・国家公務員
政界入り
官僚から
生年月日 1939年6月17日
血液型 AB型
没年月日 2016年9月9日

加藤紘一氏は、外務省で中国関係の実務を経験した後、山形県から国政へ進み、衆議院議員を13期務めた政治家です。防衛庁長官、内閣官房長官、自民党政務調査会長・幹事長、宏池会会長など、政府・党の双方で要職を経験しました。

その歩みには、庄内の政治家家庭で過ごした少年期、外交官としての海外勤務、農政や防衛政策への関与、2000年のいわゆる「加藤の乱」、議員辞職からの再出発まで、いくつもの異なる局面があります。

加藤紘一氏を理解する3つのポイント
  1. 山形・庄内の政治家家庭で育ち、東京大学卒業後は外務官僚として台湾、米国、香港などで勤務しました。
  2. 国政では防衛庁長官、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任し、外交、農政、防衛、社会保障、金融問題に関わりました。
  3. 「加藤の乱」、議員辞職、国政復帰、落選と引退まで、長い政治生活の中で立場が大きく変わる出来事を経験しました。

加藤紘一の生い立ち|鶴岡の政治家家庭で育ち、中学時代に東京へ

加藤紘一氏は1939年6月17日、山形県鶴岡市出身です。父の加藤精三氏は内務官僚を経て戦後に鶴岡市長となり、その後は衆議院議員を5期務めました。

紘一氏は1946年に鶴岡市立朝暘第二小学校へ入り、1952年には鶴岡市立第三中学校へ進学しています。政治家である父を持つ家庭で、庄内を生活の基盤として少年期を過ごしました。

中学在学中の1954年、東京の千代田区立麹町中学校へ転入します。翌1955年には東京都立日比谷高等学校に進みました。山形で始まった学校生活から、10代半ばで東京へ生活の場を移しています。

1959年には東京大学法学部へ入学しました。大学在学中の1963年に外務公務員上級試験へ合格し、卒業後は政治家ではなく外交官の道を選びます。

加藤紘一の学歴|東京大学から外務省へ――海外勤務と中国課

1964年3月に東京大学法学部を卒業し、同年4月に外務省へ入りました。最初の海外勤務は台北で、その後はワシントンへ赴任しています。

1967年にはハーバード大学の修士課程を修了し、香港で副領事を務めました。1969年には外務省アジア局中国課の次席事務官となり、東アジア外交の実務を担当しています。

台北、ワシントン、ハーバード、香港、中国課と勤務先を移しながら経験を積んだ外務省時代は約7年間でした。のちに加藤氏が長く関与する日中関係も、この時期には職務上の担当分野となっていました。

学歴一覧加藤紘一の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
小学校鶴岡市立朝暘第二小学校――山形県鶴岡市で学ぶ
中学校鶴岡市立第三中学校/千代田区立麹町中学校――転校
高校東京都立日比谷高等学校―74(2026年度版)―
大学東京大学法学部67.5(文科一類・2027年度参考)卒業
大学院ハーバード大学修士課程日本式の偏差値なし修了

※偏差値・難易度は加藤氏の在学当時ではなく現在の目安です。日比谷高校は2026年度版、東京大学法学部は文科一類を参考値としています。海外大学院は日本式偏差値で比較していません。

加藤紘一の経歴|外務省を辞め、山形から衆議院へ

1971年12月、加藤氏は外務省を退官し、地元山形へ戻りました。翌1972年の第33回衆議院議員総選挙に旧山形2区から自民党公認で立候補します。

1972年12月の総選挙で初当選。33歳でした。以後、2009年まで13回連続で衆議院議員に当選することになります。

国政入りから6年後の1978年、第1次大平内閣で内閣官房副長官に就任しました。まだ当選回数が少ない時期から、首相官邸で政権運営を支える役職を経験しています。

農政を担い、防衛庁長官へ

1980年代前半には、自民党農林部会や衆議院農林水産委員会などで農業政策に関わりました。1981年には党農林部会長を務め、1983年には総合農政調査会副会長となっています。

1984年、第2次中曽根内閣で防衛庁長官に就任しました。外交官出身の加藤氏が初めて国務大臣として担当したのは防衛行政でした。

閣僚退任後も安全保障や国際協力の国会審議に関わり、1990年には衆議院の国連平和協力に関する特別委員会委員長を務めました。

官房長官から自民党幹事長、宏池会会長へ

1991年11月、宮澤内閣の内閣官房長官に就任します。その後は自民党幹事長代理を経て、1994年に政務調査会長、1995年には幹事長となりました。

官房長官、政務調査会長、幹事長という政府・党の主要ポストを続けて経験した時期です。1995年9月から1998年7月まで幹事長を務め、橋本龍太郎総裁時代の党運営に携わりました。

1998年12月には、宮澤喜一氏らを輩出した自民党の政策集団・宏池会の会長に就任しました。

翌1999年の自民党総裁選には小渕恵三氏、山崎拓氏とともに立候補しました。投票結果は小渕氏350票、加藤氏113票、山崎氏51票で、小渕氏が再選されています。

2000年、いわゆる「加藤の乱」

2000年11月、野党が森喜朗内閣に対する不信任決議案を提出すると、加藤氏は山崎拓氏とともに賛成する方向を示しました。与党自民党の派閥会長が自らの党の内閣に対抗する動きは、いわゆる「加藤の乱」と呼ばれました。

動きを公にし始めた11月9日、記者団に囲まれた加藤氏は、これから起きる政治の動きを次のように表現しました。

国民も入れての、大きな長いドラマの始まりじゃないでしょうか

出典:文春オンライン「菅義偉、岸田文雄…20年前は“造反組”だった有力議員たち いま、あの『加藤の乱』を振り返る」(2020年11月20日)

党執行部は加藤派・山崎派所属議員への働きかけを進めました。最終的に加藤氏と山崎氏は不信任案の採決に出席せず、森内閣不信任決議案は否決されました。

この一連の動きの後、宏池会内部では加藤氏と距離を置く議員が分かれ、派閥も分裂しました。

2002年の離党・議員辞職

2002年には、加藤氏の事務所で代表を務めていた佐藤三郎氏の脱税事件をめぐり、加藤氏自身の政治責任が問われました。3月に自民党を離党し、宏池会会長も辞任します。

4月8日の衆議院予算委員会では参考人として出席し、元事務所代表の事件によって政治への信頼を損ねたことについて謝罪しました。

信頼を傷つけましたことを、私は深くおわび申し上げたいと思います。

出典:衆議院「第154回国会 予算委員会 第24号」(2002年4月8日)

翌4月9日、衆議院本会議は加藤氏の議員辞職を全会一致で許可しました。1972年から続いてきた衆議院議員としての在職はいったん途切れます。

無所属で再出馬し、2003年に国政復帰

議員辞職後、加藤氏は再び選挙区を回りました。後年の取材では、その時期について、以前とは異なる形で有権者と一対一で話した経験を振り返っています。

もう1回原点から始めようと政治家になって初めて選挙区を毎日、毎日くまなく回った。

出典:経済界ウェブ「加藤紘一の遺言~幸福とは何かを議論したい~」(2016年10月6日)

2003年11月の第43回衆議院議員総選挙では、自由民主党公認ではなく無所属で山形3区から立候補しました。

137,206票を得て当選し、約1年7か月ぶりに国政へ復帰。当選後、自民党へ復党しました。2005年、2009年の衆院選でも山形3区で当選しています。

鶴岡の実家兼事務所が放火された2006年

2006年8月15日、山形県鶴岡市にあった加藤氏の実家兼事務所が放火され、全焼する事件が起きました。当時、加藤氏は小泉純一郎首相の靖国神社参拝に批判的な発言を続けていました。

逮捕・起訴された右翼団体構成員について、山形地方裁判所は2007年に懲役8年の判決を言い渡しました。報道された判決では、裁判長が言論の自由と民主主義に関わる問題として犯行を批判しています。

2012年の落選と、40年に及んだ選挙政治への区切り

2009年の衆院選まで、加藤氏は初当選から13回連続で当選しました。しかし2012年12月の第46回衆議院議員総選挙では、山形3区で70,303票。無所属新人の阿部寿一氏が71,768票を得て当選しました。

得票差1,465票で、国政選挙では初めて落選しました。

その後も日中友好協会会長として活動し、2013年1月には村山富市元首相らと中国を訪問。同年2月には日本記者クラブで日中関係について記者会見を行っています。

2013年4月25日、地元鶴岡市の後援会会合で、次の衆議院選挙には立候補しない意向を表明しました。1972年の初当選から約40年を経て、選挙への立候補から退くことになりました。

2016年9月9日に77歳で死去しました。衆議院は同年10月の本会議で弔詞を朗読し、政府は加藤氏を正三位に叙し、旭日大綬章を授けています。

人生年表 加藤紘一さんの歩み
1939年6月17日
生まれる
山形県鶴岡市出身
1946年4月
鶴岡市立朝暘第二小学校へ入学
1952年4月
鶴岡市立第三中学校へ入学
1954年4月
千代田区立麹町中学校へ転入
1955年4月
東京都立日比谷高等学校へ入学
1964年3月
東京大学法学部を卒業
1964年4月
外務省へ入省
1967年
ハーバード大学修士課程を修了
在香港総領事館副領事を務める
1969年6月
外務省アジア局中国課次席事務官
1971年12月
外務省を退官
地元山形へ戻る
1972年12月
第33回衆議院議員総選挙で初当選
旧山形2区
1978年12月
内閣官房副長官に就任
第1次大平内閣
1984年
防衛庁長官に就任
第2次中曽根内閣
1990年10月
衆議院国連平和協力に関する特別委員会委員長に就任
1991年11月
内閣官房長官に就任
宮澤内閣
1994年7月
自由民主党政務調査会長に就任
1995年9月
自由民主党幹事長に就任
1998年12月
宏池会会長に就任
1999年9月
自由民主党総裁選挙に立候補
小渕恵三、山崎拓と争う
2000年11月
いわゆる「加藤の乱」
森内閣不信任決議案をめぐり党執行部と対立
2002年3月
自由民主党を離党し宏池会会長を辞任
元事務所代表の脱税事件を受け政治責任を表明
2002年4月9日
衆議院議員を辞職
2003年11月
第43回衆議院議員総選挙で国政復帰
無所属で当選後に自由民主党へ復党
2006年8月
鶴岡市の実家兼事務所が放火される
翌年、山形地裁が実行者に懲役8年判決
2008年7月
公益社団法人日中友好協会会長に就任
2012年12月
第46回衆議院議員総選挙で落選
山形3区
2013年4月
次期衆院選へ立候補しない意向を表明
政界引退
2016年9月9日
死去
77歳

加藤紘一が重視した政策・政治姿勢

日中関係――政府間だけでなく交流を続ける

外務省ではアジア局中国課に勤務し、国会議員となった後も中国との関係に継続して関わりました。2008年には公益社団法人日中友好協会の会長に就任しています。

2012年5月、中国・貴陽で開かれた日中友好交流会議では、日本側代表団の団長として地方間、青少年間の交流促進を議論しました。

双方は喧嘩をしている場合ではない

出典:公益社団法人日中友好協会「第13回日中友好交流会議」事業報告(公開日記載なし)

国会議員を退いた後もこの分野での活動は続き、2013年の日本記者クラブ会見では、政府間関係が難しい局面でも民間交流から関係改善を進める可能性について語りました。

防衛政策とシビリアンコントロール

防衛庁長官時代の国会答弁では、防衛政策と自衛隊の運用を国民の意思から切り離さず、内局、国防会議、内閣、国会を通じて統制する考えを説明しています。

我が国の防衛政策の決定はあくまで最後は国民が決定するもの

出典:国会会議録検索システム「第104回国会 参議院内閣委員会 第8号」(1986年5月15日)

同時期の国会答弁では、シビリアンコントロールを防衛政策の基本的な仕組みとして位置づけ、政治による自衛隊の統制を繰り返し説明していました。

農政と農林分野

選挙区に庄内地方を抱える加藤氏は、自民党内で農政分野の役職を重ねました。1981年に農林部会長、1987年には林政調査会長や農産物自由化問題等小委員会会長、1989年には総合農政調査会長を務めています。

農産物市場の自由化や農林金融など、国際経済の変化と国内農業の調整が問われた時期に党内の政策決定へ関与しました。後の住専処理でも、農林系金融機関をめぐる調整に関係することになります。

住専処理とバブル崩壊後の金融問題

政務調査会長から幹事長を務めた1990年代半ばには、住宅金融専門会社、いわゆる住専の不良債権処理が大きな政治課題になりました。

内閣府経済社会総合研究所が実施したオーラルヒストリーでは、加藤氏が幹事長代理、政調会長、幹事長の時期を通じて住専処理に深く関与し、6,850億円の財政支出を含む住専処理法案の成立にも当事者として関わったことが整理されています。

特に農政分野での党内経験から、農林系金融機関の預金者保護や負担をどう調整するかという問題にも携わりました。

年金の官民格差から「幸福観」を考える社会保障へ

加藤氏が社会保障を国会で扱ったのは、政治家生活の早い時期からでした。1977年の衆議院社会労働委員会では、厚生年金と公務員共済などの給付水準や負担の違いを具体的な数字で取り上げ、年金制度間の格差を質問しています。

2003年の国政復帰に向けて選挙区を歩いた際には、高齢者らとの会話から、同じ社会保障制度でも人によって望む暮らしが違うことを意識したと後年語りました。

国会で、今生きている老若男女の日本人の「幸福観」を議論したらどうだろうか

出典:経済界ウェブ「加藤紘一の遺言~幸福とは何かを議論したい~」(2016年10月6日)

全国一律の制度設計だけでなく、地域や生活環境によって異なる暮らし方を政策議論に反映させるという発想を示した言葉でした。

選挙歴 加藤紘一の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第33回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
初当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 65,987票 2位
第34回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
2回目の当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 77,496票 2位
第35回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
3回目の当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 74,382票 1位
第36回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
4回目の当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 108,806票 1位
第37回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
5回目の当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 103,170票 1位
第38回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:なし
6回目の当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 112,194票 1位
第39回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:なし
7回目の当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 103,717票 1位
第40回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:なし
8回目の当選
旧山形 2区 自由民主党 当選 128,784票 1位
第41回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
小選挙区比例代表並立制導入後最初の総選挙。9回目の当選
山形 4区 自由民主党 当選 112,033票 1位
第42回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
比例東北ブロックとの重複立候補。小選挙区で10回目の当選
山形 4区 自由民主党 当選 131,181票 1位
第43回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
2002年の議員辞職後の国政復帰。当選後、自由民主党へ復党
山形 3区 無所属 当選 137,206票 1位
第44回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
比例東北ブロックとの重複立候補。12回目の当選
山形 3区 自由民主党 当選 159,486票 1位
第45回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
比例東北ブロックとの重複立候補。13回目の当選
山形 3区 自由民主党 当選 130,502票 1位
第46回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
無所属の阿部寿一氏が71,768票で当選。得票差は1,465票
山形 3区 自由民主党 落選 70,303票 2位

加藤紘一氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

防衛庁と行政改革

シビリアンコントロール

日米安保と抑止力

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

映像で見る加藤紘一

2013年2月13日の日本記者クラブ会見では、前年の衆院選で落選した後の加藤氏が、村山富市元首相らとの訪中を踏まえて日中関係を約1時間にわたり語っています。

関連書籍
加藤紘一さんの著書・関連書籍
テロルの真犯人 日本を変えようとするものの正体
書籍
テロルの真犯人 日本を変えようとするものの正体
著者:加藤 紘一 / 出版社:講談社 / 発売日:2017年01月20日頃
ジャーナリズム・権力・世論を問う
書籍
ジャーナリズム・権力・世論を問う
著者:加藤紘一/奥平康弘 / 出版社:新泉社 / 発売日:2010年10月
劇場政治の誤算
書籍
劇場政治の誤算
著者:加藤紘一 / 出版社:角川書店 / 発売日:2009年04月

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政治人生の転機 加藤紘一の政治人生の転機
01
1971~1972年
外務官僚から国政へ
1971年12月に外務省を退官して山形へ戻り、翌年の衆院選で旧山形2区から初当選しました。
なぜ転機なのか 外交官としての官僚生活から、選挙で選ばれる政治家へ進路を変えたためです。
02
2000年11月
いわゆる「加藤の乱」
森内閣への不信任決議案をめぐり山崎拓氏とともに党執行部へ対抗しましたが、採決では本会議を欠席し、宏池会はその後分裂しました。
なぜ転機なのか 自民党幹事長や宏池会会長まで務めた党内での立場が大きく変化したためです。
03
2002~2003年
離党・議員辞職から国政復帰
元事務所代表の脱税事件を受けて政治責任を表明し、自民党離党、宏池会長辞任、衆議院議員辞職へ進みました。2003年には無所属で当選し、自民党へ復党しました。
なぜ転機なのか 30年間続いていた国会議員としての在職がいったん途切れ、その後、無所属で選挙をやり直して復帰したためです。
04
2012~2013年
初の落選と政界引退
2012年衆院選の山形3区で13回の連続当選後初めて落選し、2013年4月に次期衆院選へ立候補しない意向を表明しました。
なぜ転機なのか 約40年にわたった選挙政治家としての活動に区切りを付ける出来事となったためです。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
報道・インタビュー
その他の参考資料

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