羽田孜の経歴・学歴と生い立ち|小田急バス勤務から政治改革、第80代首相まで

羽田孜 
ひと目でわかるプロフィール 羽田孜
はた つとむ
出身地
東京都大田区(出生時:東京府東京市)
初当選
1969年(第32回衆議院議員総選挙)
最終学歴
成城大学経済学部
主な前職
会社員
政界入り
政治家の後継として、民間企業から
生年月日 1935年8月24日
血液型 O型
没年月日 2017年8月28日

羽田孜氏は、第80代内閣総理大臣を務めた政治家です。1990年代の政界再編で広く知られますが、政治家になる前には民間企業で長く働き、国会入り後も農政や税制、財政などの実務を積み重ねてきました。

首相在任期間だけを見ると短い政治人生に映りかねません。この記事では、東京で生まれた少年が長野県上田と縁を結び、会社員生活を経て国政へ進み、自民党を離れて政権交代の渦中へ入っていった歩みをたどります。

羽田孜氏を理解する3つのポイント
  1. 東京で生まれ、少年期を長野県上田で過ごした人物です。
  2. 大学卒業後はバス会社に勤め、民間企業での生活を経て国政へ入りました。
  3. 政治改革と政界再編の中心で自民党離党、新党結成、非自民連立政権を経験しました。

羽田孜の生い立ち|東京で生まれ、上田で育った少年期

羽田孜氏は1935年8月24日、東京府東京市、現在の東京都大田区に生まれました。父の羽田武嗣郎氏は朝日新聞の記者を経て衆議院議員となった人物です。

幼少期には戦時下で長野県上田へ移り、上田市立中央小学校、上田市立第二中学校で学びました。東京生まれでありながら、少年期の学校生活を送った上田は、その後の政治活動でも長く地盤となる地域でした。

中学校卒業後は東京へ戻り、成城学園高等学校から成城大学経済学部へ進みます。家庭には国会議員である父がいましたが、卒業後すぐ父の仕事を継いだわけではありませんでした。

武嗣郎氏は息子を当然の後継者とは考えていませんでした。後年の人物資料には、父の考えを端的に示す言葉が残されています。

政治家は世襲ではない

出典:文藝春秋PLUS「羽田孜、中村雄二郎、池田章子、両角良彦、ジェリー・ルイス」(2017年10月10日)

羽田孜の学歴|成城大学卒業後、小田急バスで働いた約10年

学歴一覧羽田孜の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
小学校上田市立中央小学校――長野県上田市
中学校上田市立第二中学校―――
高校成城学園高等学校―63(2026年度版)―
大学成城大学経済学部52.5〜57.5(経済学部・2027年度参考)卒業

※偏差値・難易度は羽田氏の在学当時ではなく現在の目安です。

1958年に成城大学経済学部を卒業すると、小田急バスへ入社しました。政界入りまで約10年間、会社員として働いたことは、世襲議員の家庭に生まれた羽田氏の経歴の中でも目を引く部分です。

観光課ではバス旅行の仕事に携わり、「文学散歩」や「史跡めぐり」といった企画を手がけました。報道では、こうした企画がヒットし、バスの車掌も経験したと伝えられています。

営業や観光の現場では、政治家の家に生まれたこととは別の世界で、乗客と接する会社員生活が続きました。当初はそのままサラリーマンとして歩むつもりでした。

転機は父・武嗣郎氏の病気と政界引退でした。後援会から後継として国政へ出ることを求められ、羽田氏は1968年に小田急バスを退職します。

人生年表 羽田孜さんの歩み
1935年8月24日
東京府東京市に生まれる
現在の東京都大田区
1948年
上田市立中央小学校を卒業
現在の上田市立清明小学校
1951年
上田市立第二中学校を卒業
1958年
成城大学経済学部を卒業
1958年
小田急バスへ入社
観光課などで勤務
1968年
小田急バスを退職
父・羽田武嗣郎の後継として政界入りへ
1969年12月
第32回衆議院議員総選挙で初当選
旧長野2区でトップ当選
1985年12月
農林水産大臣に就任
第2次中曽根内閣第2次改造内閣
1988年12月
農林水産大臣に再任
竹下改造内閣
1991年11月
大蔵大臣に就任
宮澤内閣
1993年6月
自由民主党を離党し新生党を結成
党首に就任
1993年8月
副総理兼外務大臣に就任
細川内閣
1994年4月28日
第80代内閣総理大臣に就任
1994年6月30日
羽田内閣が総辞職
首相在職64日
1994年12月
新進党副党首に就任
1996年12月
新進党を離党し太陽党を結成
党首に就任
1998年1月
民政党代表に就任
1998年4月
民主党幹事長に就任
民政党などが民主党へ合流
2009年8月
第45回衆議院議員総選挙で14回目の当選
長野3区
2012年12月
衆議院総選挙に立候補せず政界を引退
14期43年の国会議員生活を終える
2013年
桐花大綬章を受章
上田市名誉市民の称号も贈呈
2017年8月28日
死去
82歳

羽田孜の経歴|旧長野2区で初当選、農政の実務を積む

1969年12月、第32回衆議院議員総選挙で自由民主党公認候補として旧長野2区に立候補しました。73,325票を得て、定数3の選挙区でトップ当選し、34歳で国会議員となります。

自民党では田中派に所属しました。郵政政務次官、農林政務次官を経て、衆議院農林水産委員長、自民党の林政・農政関係の役職などを務め、農業分野で実務経験を重ねていきます。

都市部の選挙区ではなく、農業を重要産業とする長野県の中選挙区を地盤にしたこともあり、国会議員としての前半期では農政が主要な専門分野になりました。

選挙では1972年、1976年、1979年、1980年、1983年、1986年、1990年と議席を守りました。個々の得票には変動がありましたが、この間に閣僚候補となるまで党内で立場を上げています。

農林水産相を2度務め、大蔵相へ

1985年12月、第2次中曽根内閣第2次改造内閣で農林水産大臣として初入閣しました。約20年近く国会と党で携わってきた農政を、政府側の責任者として扱う立場になります。

1988年12月には竹下改造内閣で再び農林水産大臣となりました。党内では税制分野にも関わり、1988年の抜本税制改正につながる審議にも長く参加しています。

竹下派では橋本龍太郎氏、小渕恵三氏、小沢一郎氏らとともに有力議員の一人となり、いわゆる「七奉行」に数えられました。

1991年11月に宮澤内閣が発足すると、羽田氏は大蔵大臣に就任します。バブル崩壊後の金融・証券市場への不信が問題となる時期に、財政・金融行政を担うことになりました。

自民党を離党し、新生党を結成

1990年代初頭、自民党内では政治改革の進め方や旧竹下派の主導権をめぐる対立が強まりました。1992年には羽田氏や小沢一郎氏らが「改革フォーラム21」をつくり、経世会から分かれて独自のグループを形成します。

1993年6月の宮澤内閣不信任決議案で羽田氏らは賛成に回りました。その後、自由民主党を離党し、新生党を結成して党首に就任します。

7月の第40回衆院選では、新生党候補として旧長野2区から146,870票を獲得してトップ当選。新生党は55議席を得て、総選挙後の非自民連立政権を構成する主要勢力の一つとなりました。

8月9日に細川護熙内閣が発足すると、羽田氏は副総理兼外務大臣に就きました。同年10月に東京で開かれた第1回アフリカ開発会議(TICAD)では、日本側の副総理兼外相として参加しています。

少数与党で発足した第80代羽田内閣

1994年4月、細川護熙首相が退陣すると、連立与党は後継首相として羽田氏を選びました。4月28日、第80代内閣総理大臣に就任します。

しかし首相指名直後、新生党など5会派が衆議院の統一会派「改新」を結成したことに社会党が反発し、連立政権から離脱しました。羽田内閣は発足時から衆議院で過半数を持たない少数与党となります。

首相として国会で問われた政治の基本姿勢に対し、羽田氏は自らの言葉で次のように答えています。

血につながる政治、心につながる政治、普通の言葉の通じる政治

出典:国会会議録検索システム「第129回国会 参議院 本会議 第17号」(1994年5月16日)

羽田内閣は細川内閣から引き継いだ1994年度予算の成立を優先しました。政治改革関連法の実施準備、規制緩和、日米包括経済協議の再開、北朝鮮核疑惑への対応なども同時に進めています。

予算成立後、自民党が内閣不信任案を提出し、少数与党では否決できない状況となりました。羽田氏は衆議院解散ではなく総辞職を選び、6月30日に村山富市内閣へ交代します。首相在職期間は64日でした。

新進党から太陽党、民政党、民主党へ

首相退任後も政界再編から離れませんでした。1994年12月に新生党などが合流して新進党が発足すると、副党首に就任します。

1995年の新進党党首選では小沢一郎氏と争って敗れました。翌1996年12月には新進党を離党し、国会議員13人で太陽党を結成して党首となります。

1998年1月、太陽党は「国民の声」「フロム・ファイブ」と合流して民政党を結成し、羽田氏が代表に就きました。さらに同年4月、民政党などが合流して新たな民主党が発足すると、羽田氏は幹事長を務めました。

選挙制度が小選挙区比例代表並立制へ変わった後は長野3区を地盤としました。1996年の第41回衆院選では161,670票を得て小選挙区で当選し、その後も民主党候補として議席を維持します。

民主党では特別代表、最高顧問なども務めました。2009年の衆院選で14回目の当選を果たし、2012年の総選挙には立候補せず政界を引退。衆議院議員としての在職は14期43年に及びました。

2013年には桐花大綬章を受章し、長く選挙地盤としてきた上田市から名誉市民の称号を贈られています。

選挙歴 羽田孜の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第32回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
初当選
旧長野 2区 自由民主党 当選 73,325票 1位
第33回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
旧長野 2区 自由民主党 当選 67,307票 1位
第34回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
旧長野 2区 自由民主党 当選 61,243票 3位
第35回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
旧長野 2区 自由民主党 当選 71,160票 1位
第36回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
旧長野 2区 自由民主党 当選 80,943票 1位
第37回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
旧長野 2区 自由民主党 当選 71,880票 1位
第38回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
旧長野 2区 自由民主党 当選 88,908票 1位
第39回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
旧長野 2区 自由民主党 当選 71,192票 2位
第40回衆議院議員総選挙
定数:3 比例復活:制度なし
自民党離党、新生党結成後初の総選挙
旧長野 2区 新生党 当選 146,870票 1位
第41回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
小選挙区比例代表並立制導入後初の総選挙
長野 3区 新進党 当選 161,670票 1位
第42回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(比例北陸信越と重複立候補、小選挙区で当選)
長野 3区 民主党 当選 163,382票 1位
第43回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(比例北陸信越と重複立候補、小選挙区で当選)
長野 3区 民主党 当選 150,203票 1位
第44回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(比例北陸信越と重複立候補、小選挙区で当選)
長野 3区 民主党 当選 143,728票 1位
第45回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(比例北陸信越と重複立候補、小選挙区で当選)
14回目の当選
長野 3区 民主党 当選 138,614票 1位

羽田孜が重視した政策・政治姿勢

政治改革は「政治倫理」から

羽田氏が政治改革で問題にしたのは選挙制度だけではありませんでした。1993年の政治改革特別委員会では、リクルート事件後の議論を振り返りながら、出発点をこう述べています。

政治改革というのは、基本は政治倫理である

出典:国会会議録検索システム「第128回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第5号」(1993年10月20日)

同じ党の候補者同士が競争する中選挙区制では、多額の資金を必要とする選挙につながりやすいとの認識も示していました。政党を軸に政権選択を行える仕組みへ変えることを、倫理面と選挙制度面の両方から捉えていました。

国内生産を軸にした食料安全保障

農林水産相時代には、食料の安定供給に加え、農業が地域社会や国土、自然環境を支える役割にも言及しています。市場開放要求が続く中でも、食料供給を輸入だけに依存しない立場を示しました。

国内で生産可能な農産物は極力国内生産で賄う

出典:国会会議録検索システム「第104回国会 参議院 農林水産委員会 第1号」(1986年2月20日)

そのための手段として、担い手の育成、農地と水資源の確保、技術向上を挙げ、総合的な食料自給力を維持・強化する方針を示していました。

証券市場の公正と監視体制

大蔵相時代には証券不祥事を受けた市場監視体制の整備を担当しました。政府は証券取引等監視委員会の設置を盛り込んだ法案を提出し、証券会社への検査・監視を強化する方向へ動きます。

証券市場に対する信頼を回復してまいりたい

出典:国会会議録検索システム「第123回国会 衆議院 本会議 第23号」(1992年5月14日)

羽田氏は監視委員会による検査・監視と、公正な取引の確保を市場への信頼回復につなげる考えを示していました。

行政改革と規制緩和

首相就任後には、政治改革だけでなく行政・経済改革も前政権から引き継ぎました。規制緩和を含む改革について、少数政権であっても国会の協力を得ながら進める姿勢を示しています。

行政改革は、もう今や避けて通ることのできない国政運営上の重要な課題

出典:国会会議録検索システム「第129回国会 衆議院 本会議 第22号」(1994年6月2日)

改革には利害調整や負担が伴うことも認めたうえで、「かけ声だけ」で終わらせないことを国会答弁で強調していました。

原爆ドームの世界遺産推薦へ政府を動かす

短い首相在任中に残した動きの一つが、広島の原爆ドームをユネスコ世界遺産へ推薦するための政府内検討です。1994年6月7日の閣僚懇談会で、羽田首相は熊谷弘官房長官に推薦を検討するよう指示しました。

当時、日本政府内には世界遺産推薦をめぐる課題が残っていました。その後、原爆ドームは国の史跡指定を経て1995年に推薦され、1996年12月に「Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)」として世界遺産一覧表への登録が決まりました。

政治人生の転機 羽田孜の政治人生の転機
01
1968~1969年
会社員から父の地盤継承へ
小田急バスを退職し、旧長野2区から初出馬して衆議院議員となった。
なぜ転機なのか 約10年間の民間企業勤務から国政へ進路が切り替わったため。
02
1993年
自民党離党と新生党結成
宮澤内閣不信任案に賛成して自民党を離れ、新生党党首となった。
なぜ転機なのか 長く所属した自民党を離れ、政権交代と政治改革を目指す側へ立場を移したため。
03
1994年4月
第80代内閣総理大臣へ
細川護熙首相の退陣後に首相へ指名され、羽田内閣を組織した。
なぜ転機なのか 非自民連立政権を引き継ぐ最高責任者となったため。
04
1996~1998年
新進党離党から民主党へ
新進党を離れ、太陽党、民政党を率いた後、民主党結成に参加した。
なぜ転機なのか 首相退任後も野党再編を進め、後年の主要な活動基盤となる民主党へ移ったため。

羽田孜氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

選挙制度と政治改革

政治改革と景気・予算

行政改革

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

映像で見る原爆ドーム世界遺産登録への道

羽田氏の判断が政府内の検討や、その後の世界遺産推薦へどう引き継がれていったのかは、2026年にNHKが公開した公式映像でも、関係者証言や資料とともにたどることができます。

関連書籍
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志
書籍
志
著者:羽田孜 / 出版社:朝日新聞出版 / 発売日:1996年11月05日頃
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小説田中学校
著者:羽田孜 / 出版社:光文社 / 発売日:1996年09月
これで、始める 日本再生のプログラム
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これで、始める 日本再生のプログラム
著者:羽田孜 / 出版社:同文書院 / 発売日:1996年08月

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参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
報道・インタビュー

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