安倍晋太郎の経歴・学歴と生い立ち|新聞記者から外務大臣、自民党幹事長まで

安倍晋太郎
ひと目でわかるプロフィール 安倍晋太郎
あべ しんたろう
出身地
東京府東京市(現・東京都)
初当選
1958年(第28回衆議院議員総選挙)
最終学歴
東京大学法学部政治学科卒業
主な前職
新聞記者・ジャーナリスト
政界入り
政治家の後継として
生年月日 1924年4月29日
没年月日 1991年5月15日

安倍晋太郎氏は、昭和後期の自由民主党で農林大臣、内閣官房長官、通商産業大臣、外務大臣、党幹事長を歴任した政治家です。

国会へ進む前は毎日新聞の記者でした。戦時下の学生生活、新聞社勤務、岸信介の秘書官という異なる世界を通り、1958年に国政へ入っています。この記事では、その歩みを時系列でたどります。

安倍晋太郎氏を理解する3つのポイント
  1. 戦前・戦後の学生生活を経て、東京大学卒業後は毎日新聞の記者になりました。
  2. 岸信介の秘書官から国政へ進み、一度の落選を挟みながら衆議院で11回当選しました。
  3. 外務大臣として約3年8か月務めた後、自民党の総裁候補、幹事長へと進みました。

安倍晋太郎の生い立ち|政治家の父を持ち、山口で育った少年時代

安倍晋太郎氏は1924年4月29日に生まれました。出生地については資料によって東京府東京市と山口県大津郡日置村の記載がありますが、幼少期を山口県側で過ごしたことは複数の人物資料で確認されています。

父は衆議院議員を務めた安倍寛です。晋太郎氏は旧制の山口中学校に学び、その後、岡山の第六高等学校へ進学しました。

安倍晋太郎の学歴|山口中学・第六高等学校から東京大学へ

さらに東京帝国大学へ進みます。学生生活は太平洋戦争と重なり、学業は戦時体制の影響を受けました。戦後に大学へ戻り、1949年に東京大学法学部政治学科を卒業しています。

旧制山口中学校、第六高等学校を経て大学へ進んでおり、中学・高校段階は現在とは異なる学校制度です。表では旧制学校に現代の偏差値を当てはめず、東京大学についてのみ現在の入試難易度を参考表示します。

学歴一覧安倍晋太郎の学歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
旧制中学校山口県立山口中学校―旧制度・比較不可進学
旧制高校第六高等学校―旧制度・比較不可進学
大学東京大学法学部政治学科67.5(文科一類・2027年度/参考)1949年卒業

※旧制学校は現在と制度が異なるため偏差値を掲載していません。東京大学は現在の文科一類のボーダーを参考表示しており、本人の在学当時の難易度を示すものではありません。

安倍晋太郎の経歴|毎日新聞記者として政治を取材した時代

大学卒業後に選んだ仕事は政治家ではなく新聞記者でした。1949年に毎日新聞社へ入り、政治の世界を外側から取材する立場に立ちます。

1951年には岸信介の長女・洋子と結婚しました。岸は戦後の公職追放解除後に国政へ復帰し、やがて外務大臣、内閣総理大臣へ進んでいきます。

晋太郎氏にとって大きな職業上の変化が訪れたのは1956年です。毎日新聞を退社し、外務大臣となった岸信介の秘書官へ転じました。翌1957年に岸内閣が発足すると、首相秘書官を務めています。

1958年、旧山口1区から初当選

1958年5月の第28回衆議院議員総選挙で、自由民主党公認候補として旧山口1区から立候補しました。

70,814票を得て2位で初当選。新聞記者、外相・首相秘書官という経歴を経て、34歳で自ら議席を持つ政治家となりました。

1960年にも再選しましたが、1963年の第30回総選挙では58,021票で5位となり、定数4の議席に届きませんでした。

4年後の1967年1月、第31回総選挙に再び出馬します。98,771票を得て首位当選し、国政へ復帰しました。その後は1990年まで衆院選で連続当選を続けています。

農林大臣として掲げた食料自給力

国政復帰後は党や政府で役割を広げ、1974年12月、三木内閣の農林大臣に就任しました。

当時は世界的な食料需給への関心が強まっていた時期でした。1975年3月の衆議院農林水産委員会では、国内農業について次のように述べています。

「これからの農政の基本課題は自給力を可能な限り高めていく」

出典:国会会議録「第75回国会 衆議院 農林水産委員会 第15号」(1975年3月18日)

農地利用の制度改正だけでなく、中核的な農家の育成、経営規模の拡大などを自給力向上の手段として説明していました。

官房長官、政調会長、通商産業大臣へ

1977年11月には福田赳夫改造内閣の内閣官房長官となりました。官房長官退任後も党内で役割を広げ、1980年には自由民主党政務調査会長を務めています。

1981年11月には鈴木善幸改造内閣の通商産業大臣に就任しました。日本経済が国際貿易や海外市場との関係を深める中、通商政策を担う立場に移っています。

この時期までに、農政、官邸運営、党の政策調整、通商行政と、扱う分野は大きく広がっていました。

1982年の自民党総裁予備選に出馬

1982年、鈴木善幸首相の退陣を受けて行われた自由民主党総裁選では、中曽根康弘、河本敏夫、中川一郎とともに安倍氏も立候補しました。

党員・党友による予備選での得票は80,443票で3位。首位となった中曽根康弘氏が総裁に選ばれました。

その直後の1982年11月27日、第1次中曽根内閣が発足すると、安倍氏は外務大臣に就任します。

外務大臣として軍縮とアジア外交を語る

外相在任は1986年7月まで続きました。冷戦下で米ソの核戦力、朝鮮半島、日米関係、中東情勢などが外交課題となる時期です。

1983年3月の参議院外務委員会では核軍縮について、こう発言しました。

「いま世界で一番大きな課題はやはり軍縮の問題だと思います」

出典:国会会議録「第98回国会 参議院 外務委員会 第5号」(1983年3月30日)

同年4月には、日本の外交と防衛について、平和国家として外交努力を進める立場を示しています。

「平和外交を積極的に進めるというのは日本の基本的な立場です」

出典:国会会議録「第98回国会 参議院 外務委員会 第7号」(1983年4月19日)

東南アジアとの関係についても、「日本はアジアの一国」という認識を明確にしていました。

「日本はアジアの一国であります」

出典:国会会議録「第98回国会 参議院 外務委員会 第6号」(1983年4月12日)

イラン・イラク戦争と「積極的な平和外交」

外相在任中には長期化していたイラン・イラク戦争への外交的対応にも関わりました。日本は両国と関係を持っており、安倍氏はイラン側との対話を進めています。

1984年4月の衆議院外務委員会では、日本が独自に果たす役割について次の言葉を残しました。

「日本は日本なりの立場を生かした積極的な平和外交をやっていかなければならぬ」

出典:国会会議録「第101回国会 衆議院 外務委員会 第8号」(1984年4月18日)

ベラヤチ・イラン外相との会談にも触れ、戦争の拡大を避けるよう働きかけたことを国会で説明しています。

1985年にも軍縮を「世界人類の大課題」と位置づけ、米ソ二国間だけでなく国連や軍縮会議で各国が議論すべき問題だとの考えを示しました。

「軍縮というのは世界人類の大課題であると思います」

出典:国会会議録「第102回国会 衆議院 外務委員会 第17号」(1985年5月31日)

福田派を引き継ぎ、自民党の総裁候補へ

1986年7月に外務大臣を退任した後、党内では福田赳夫氏の流れをくむグループの中心へ進みました。

同年の衆院選では旧山口1区で139,123票を獲得。10回目の当選となり、確認できる自身の衆院選得票としては最多でした。

中曽根康弘総裁の後継をめぐる1987年の局面では、竹下登氏、宮澤喜一氏とともに次期総裁候補となります。最終的には中曽根氏の裁定で竹下氏が後継に決まりました。

安倍氏は竹下総裁の下で自由民主党幹事長に就任し、政府の閣僚から党運営の中枢へ活動の比重を移しました。

人生年表 安倍晋太郎さんの歩み
1924年4月29日
生まれる
出生地は資料間で東京府東京市と山口県大津郡日置村の記載差あり
1940年代
旧制山口中学校、第六高等学校を経て東京帝国大学へ進学
戦後に復学
1949年
東京大学法学部政治学科を卒業
毎日新聞社へ入社
1951年
岸信介の長女・洋子と結婚
1956年
毎日新聞社を退社
外務大臣となった岸信介の秘書官へ転じる
1957年
岸信介内閣で内閣総理大臣秘書官となる
1958年5月
第28回衆議院議員総選挙で初当選
旧山口1区・自由民主党
1963年11月
第30回衆議院議員総選挙で落選
1967年1月
第31回衆議院議員総選挙で国政復帰
以後1990年まで連続当選
1974年12月
農林大臣に就任
三木内閣
1977年11月
内閣官房長官に就任
福田赳夫改造内閣
1980年
自由民主党政務調査会長を務める
1981年11月
通商産業大臣に就任
鈴木善幸改造内閣
1982年11月
自由民主党総裁予備選に立候補
予備選3位
1982年11月
外務大臣に就任
中曽根内閣で1986年7月まで在任
1986年
衆議院議員10回目の当選
旧山口1区で139,123票
1987年
福田赳夫から派閥を引き継ぎ、自民党総裁候補となる
中曽根裁定で竹下登が後継総裁
1987年10月
自由民主党幹事長に就任
竹下登総裁の下で党務を担う
1989年
自由民主党幹事長を退任
1990年2月
第39回衆議院議員総選挙で11回目の当選
1991年5月15日
死去
67歳

安倍晋太郎氏が重視した政策と政治姿勢

食料自給力と国内農業

農林大臣時代には、国内の食料自給力を高めることを農政の基本課題として掲げました。農業経営の規模拡大、中核的農家の育成、生産意欲の向上を政策課題として国会で説明しています。

核軍縮

外務大臣時代には、核軍縮を国際政治の主要課題として繰り返し取り上げました。米ソ交渉だけでなく、日本も被爆国として関係国へ立場を伝えるべきだという考えを示しています。

アジアとの関係

ASEANとの友好関係について、日本を「アジアの一国」と位置づけて外交を進める立場を表明しました。中曽根首相によるASEAN歴訪についても、地域との友好親善を強める機会として国会で説明しています。

中東での外交的働きかけ

イラン・イラク戦争では、日本が独自に外交的な働きかけを行うことを重視しました。イラン外相との対話を通じ、戦争拡大の自制を求めたことも国会答弁に残っています。

平和外交と安全保障

日本の平和国家としての立場を強調する一方、最小限の自衛力は必要だという考えも示していました。外交、安全保障、経済協力を別々に扱うのではなく、世界平和への関与という枠組みで答弁しています。

選挙歴 安倍晋太郎の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第28回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
初当選
山口 1区 自由民主党 当選 70,814票 2位
第29回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
2回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 68,218票 4位
第30回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
唯一の衆院選落選
山口 1区 自由民主党 落選 58,021票 5位
第31回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
国政復帰、3回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 98,771票 1位
第32回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
4回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 87,671票 1位
第33回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
5回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 91,855票 1位
第34回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
6回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 98,376票 1位
第35回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
7回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 111,953票 1位
第36回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
8回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 127,947票 1位
第37回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
9回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 108,448票 1位
第38回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
10回目の当選
山口 1区 自由民主党 当選 139,123票 1位
第39回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:該当なし
11回目、最後の当選
山口 1区 自由民主党 当選 102,204票 1位

安倍晋太郎氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

防衛政策の自主性

ASEANとの信頼関係

有事研究と政府の責任

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

1990年、11回目の当選

1990年2月の第39回衆議院議員総選挙では102,204票を獲得し、旧山口1区の首位で当選しました。

これが11回目で、最後の衆議院当選となります。1958年の初当選から、1963年の落選と1967年の復帰を挟み、30年以上にわたって国政に携わりました。

1991年5月15日に死去。67歳でした。

関連書籍
安倍晋太郎さんの著書・関連書籍
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政治人生の転機 安倍晋太郎の政治人生の転機
01
1956~1958年
新聞記者から岸信介の秘書官、そして国政へ
毎日新聞記者を退き、外相・首相となった岸信介の秘書官を経て、1958年に旧山口1区から初当選。
なぜ転機なのか 報道する側から政治を担う側へ進路が変わったため。
02
1963~1967年
落選から国政復帰
1963年の総選挙で議席を失った後、1967年に98,771票を得て復帰。
なぜ転機なのか 唯一の落選を経て、その後の長い連続当選につながったため。
03
1982年
総裁選出馬と外務大臣就任
自民党総裁予備選に立候補し、その直後に中曽根内閣の外務大臣へ就任。
なぜ転機なのか 党の最高ポストを競う立場となり、同時に外交の責任者として長期在任したため。
04
1987年
自民党総裁候補から幹事長へ
中曽根康弘総裁の後継を竹下登、宮澤喜一らと争い、中曽根裁定後は竹下総裁の下で幹事長に就任。
なぜ転機なのか 首相候補として党内の中心に立った後、党運営を担う立場へ移ったため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
その他の参考資料
  • 生年月日、学歴、毎日新聞記者、岸信介秘書官、主要閣僚歴、出生地に関する資料差を確認

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