山縣有朋の経歴・学歴と生い立ち|松下村塾・奇兵隊から2度の首相、元老へ

山縣有朋
ひと目でわかるプロフィール 山縣有朋
やまがた ありとも
出身地
山口県萩市川島(旧・長州藩萩城下川島)
最終学歴
松下村塾
生年月日 1838年6月14日
没年月日 1922年2月1日

山縣有朋は、幕末の長州藩で奇兵隊に加わった青年期から、明治政府の軍制・内務行政、二度の内閣総理大臣、さらに元老として活動した人物です。

その歩みは、幕末の実戦経験、欧州での兵制調査、徴兵令、地方制度、第1回帝国議会、日清・日露戦争へと続きます。政治家としてだけでなく、軍人、行政制度の担い手、庭園文化を愛した人物という複数の顔がありました。

山縣有朋を理解する3つのポイント
  1. 萩の下級武士の家に生まれ、松下村塾と奇兵隊を通じて幕末の政治・軍事活動へ入りました。
  2. 明治政府では軍制と地方行政の制度づくりに長く関わりました。
  3. 二度の首相在任後も、参謀総長・枢密院議長・元老として政治中枢に残りました。

山縣有朋の生い立ち|萩城下川島の下級武士の家に生まれる

山縣有朋は1838年、長州藩の萩城下川島に生まれました。父は萩藩士の山縣有稔。幼いころの通称は小助です。

川島は現在の山口県萩市にあたります。のちに初代首相となる伊藤博文をはじめ、明治国家の形成に関わる人物を多く生んだ長州で育ちましたが、山縣自身の家は藩の上層ではなく、下級武士の家でした。

山縣有朋の学歴|久坂玄瑞との出会いから松下村塾へ

20歳のころ、京都で久坂玄瑞と出会い、その後、吉田松陰が主宰した松下村塾に入りました。

松下村塾には高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山田顕義ら、幕末から明治にかけて政治や軍事の舞台へ進む人物が集まっていました。山縣もその人間関係の中へ加わっていきます。

学歴一覧山縣有朋の学び
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区分学びの場現在の偏差値・難易度備考
私塾松下村塾近代以前の私塾・偏差値比較不可吉田松陰の私塾で学ぶ

※松下村塾は近代学校制度成立前の私塾であり、現代の偏差値という尺度は適用できません。

ただし、山縣の生涯でより長く続くことになるのは学問生活ではなく、まもなく本格化する長州藩の軍事行動でした。

山縣有朋の経歴|奇兵隊軍監として幕末の戦場へ

1863年、高杉晋作が創設した奇兵隊で、山縣は25歳にして軍監となりました。奇兵隊は身分を越えて人員を集めた長州藩の部隊で、山縣はここで軍事指揮の実務を経験します。

四境戦争では幕府軍と戦い、戊辰戦争でも長州藩兵の指揮官として出征しました。戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討越後口の参謀となり、北越方面を転戦しています。

維新後、藩単位の軍隊から中央政府の軍隊へ制度を組み替えていく時期に、山縣は新政府の軍政へ移っていきました。

欧州で兵制を調査し、徴兵令の制定へ

1869年3月、山縣は西郷従道とともに長崎から欧州へ向かいました。イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどを巡り、徴兵制度をはじめとする各国の兵制を調査し、1870年8月に帰国します。

帰国直後に兵部少輔、翌1871年には兵部大輔となり、西郷従道らと軍備の将来構想を政府へ提出しました。

1873年1月には国民皆兵を制度化する徴兵令が公布されます。山縣はその制定に重要な役割を担い、同年6月には陸軍卿となりました。幕末の奇兵隊軍監から、全国的な近代軍制を設計する政府中枢へ移った時期です。

西南戦争を経て参謀本部長へ

1877年の西南戦争では、有栖川宮熾仁親王を征討総督とする政府軍の参軍となり、川村純義とともに軍事指揮にあたりました。

翌1878年には参謀本部長となります。政府の軍事機構では、行政として軍を管理する軍政と、作戦・指揮を担う軍令の組織が整えられていき、山縣はその中枢に位置しました。

軍務だけに活動を限定したわけではありません。1882年には参事院議長、1883年には内務卿となり、行政制度の整備へ軸足を広げていきます。

内務大臣として地方制度を整える

1885年に内閣制度が発足すると、第1次伊藤内閣の内務大臣となり、黒田内閣でも続投しました。

この時期には町村合併を進めたうえで、1888年に市制・町村制を制定。第1次山縣内閣となった1890年には府県制・郡制が公布されました。

自治は元来国の基なり

出典:国立公文書館「府県制・郡制を定む(明治23年)」(公開日記載なし)

制度上、府県知事は政府が任命する官吏で、府県会の予算が成立しない場合の原案執行など強い権限を持ちました。地方議会の選挙も制限・間接選挙を含み、自治制度の導入と中央政府による監督が組み合わされた仕組みでした。

第3代首相となり、第1回帝国議会を迎える

1889年12月24日、黒田清隆の退任後に臨時首相を務めていた三条実美の後を受け、第3代内閣総理大臣に就任しました。就任当初は内務大臣も兼ねています。

第1次山縣内閣は、1890年に開会した第1回帝国議会と向き合うことになります。山縣は施政方針演説で国防について「主権線」と「利益線」という考え方を示しました。

蓋国家独立自営の道に二途あり

出典:アジア歴史資料センター「政治・外交 日露戦争勃発」掲載・第1回帝国議会関係資料(公開日記載なし)

山縣は、国の領域を「主権線」、その安全と密接な関係を持つ区域を「利益線」と説明し、軍備の必要性を訴えました。一方、衆議院の民党側は地租軽減と経費節減を掲げて政府と対立します。

1891年5月6日に第1次山縣内閣は終わりました。首相在職は499日でした。

貴族院議員、司法大臣、枢密院議長へ

首相在任中の1890年9月、山縣は貴族院議員に任命されました。これは衆議院のような公選選挙による議席ではなく、貴族院令に基づく任命でした。

第1次内閣退任後も政府中枢から離れず、第2次伊藤内閣では司法大臣を務め、1893年には枢密院議長となります。

首相経験後に閣僚や枢密院へ移る経歴からも、山縣の活動が一つの内閣の在職期間だけでは区切れないことが分かります。

日清戦争で第1軍司令官として出征

1894年の日清戦争では第1軍司令官となりました。第1軍は第3師団と第5師団を基幹として編成され、朝鮮半島から鴨緑江方面へ進軍します。

山縣が仁川へ上陸した時点では、野津道貫第5師団長の指揮で平壌作戦が進んでいました。そのため現地の指揮を野津に任せ、その後、第1軍は北進して鴨緑江を越えました。

同年12月初旬に山縣は召喚され、野津が第1軍司令官を引き継ぎました。1895年には短期間ながら第2次伊藤内閣の陸軍大臣も兼ねています。

人生年表 山縣有朋さんの歩み
1838年6月14日
長州藩萩城下川島に生まれる
下級藩士・山縣有稔の子
20歳頃
松下村塾に入門
京都で久坂玄瑞と出会った後に学ぶ
1863年
奇兵隊軍監に就任
高杉晋作が創設した奇兵隊で軍事活動に携わる
1866年
四境戦争に参加
長州藩軍として幕府軍と戦う
1868年
戊辰戦争に従軍
北陸方面などを転戦
1869年3月
欧州視察へ出発
西郷従道と英・仏・独・露などを視察
1870年8月
欧州視察から帰国
兵制を中心に欧州各国の制度を研究
1873年1月
徴兵令が公布
制定に重要な役割を果たす
1873年6月
陸軍卿に就任
近代陸軍の制度整備に携わる
1877年
西南戦争で政府軍の指揮に参加
1878年12月
参謀本部長に就任
軍令機構の中枢に入る
1883年12月
内務卿に就任
1885年12月
第1次伊藤内閣の内務大臣に就任
黒田内閣でも続投
1889年12月24日
第3代内閣総理大臣に就任
第1次山縣内閣を組織
1890年9月29日
貴族院議員に任命
貴族院令第1条第4項による任命
1891年5月6日
第1次山縣内閣が終了
1893年3月
枢密院議長に就任
1894年8月
日清戦争の第1軍司令官に就任
1898年1月
元帥となる
1898年11月8日
第9代内閣総理大臣に就任
第2次山縣内閣を組織
1900年10月19日
第2次山縣内閣が終了
1904年6月
参謀総長に就任
日露戦争期の陸軍軍令中枢を担う
1905年12月
枢密院議長に就任
1907年9月
公爵となる
1909年11月
再び枢密院議長に就任
死去まで在職
1922年2月1日
死去
同月に東京・日比谷公園で国葬

第2次山縣内閣で進めた政策と制度

1898年11月8日、山縣は再び首相となりました。第2次山縣内閣は1900年10月19日まで711日続き、二度の首相在職は通算1,210日です。

財政基盤と条約改正後の国家運営

就任直後の帝国議会で山縣は、国防計画だけでなく、財政の安定、条約改正の実施準備、教育、殖産、交通、貿易などを政府の課題として挙げました。

時勢ノ進歩ハ一刻モ停止致シマセヌ

出典:国立国会図書館「第13回帝国議会 衆議院 本会議 第4号」(1898年12月8日)

1899年2月の議会終盤には、財政整理を最優先課題の一つとして位置付け、増税諸法案の成立後には新条約実施への準備を続ける方針を示しました。

其中最モ急ニ著手スベキ事件ハ財政ノ整理デアリマス

出典:国立国会図書館「第13回帝国議会 貴族院 本会議 第33号」(1899年2月24日)

文官任用令の改正

1899年3月、第2次山縣内閣は文官任用令を改正しました。親任官を除く勅任官について、高等文官試験に合格し一定の官歴を持つ奏任官から昇任させる仕組みを強め、政党員を自由に上級官職へ登用できる範囲を狭めました。

これは、直前の第1次大隈内閣で政党員が勅任官へ任命された状況を受けた制度変更でした。官僚任用を資格・官歴中心へ寄せた措置として、山縣内閣の行政制度を考えるうえで重要な政策です。

軍部大臣現役武官制

1900年5月には陸軍省・海軍省の官制が改正され、陸軍大臣・海軍大臣を現役将官から任命することが明記されました。

後に「軍部大臣現役武官制」と呼ばれる仕組みが確立したのも第2次山縣内閣期です。この規定は1913年にいったん改められることになります。

治安警察法と衆議院議員選挙法改正

1900年3月10日には治安警察法が公布されました。同法では女性の政党加入や政談集会の開催・参加が禁止されるなど、政治活動への規制が置かれました。

その一方、同月28日の衆議院議員選挙法改正では、選挙権の納税資格が直接国税10円以上となり、無記名投票や大選挙区制が導入されました。ただし男子・納税要件は残され、普通選挙には至っていません。

現行法定メラレマシテヨリ既ニ十年ノ星霜ヲ經テ居リマス

出典:国立国会図書館「第14回帝国議会 衆議院 本会議 第10号」(1899年12月19日)

この発言は、政府が前年の議会で成立しなかった選挙法改正案を再提出した際のものです。山縣は、制度制定から10年を経た経験を踏まえて改正の必要があると説明しました。

日露戦争では参謀総長として軍令中枢へ戻る

第2次内閣退任後、山縣は1903年に枢密顧問官となり、1904年6月には参謀総長に就任しました。

日露戦争当時、陸軍大臣は寺内正毅、参謀総長は山縣有朋でした。内閣を率いる立場からは退いていましたが、陸軍の軍令を担う最高機関の長として戦時の中枢に復帰しています。

戦後の1905年12月には枢密院議長となりました。1907年には公爵となり、1909年11月からは再び枢密院議長を務め、死去まで在職します。

元老として続いた政治への影響

首相や参謀総長を退いた後も、山縣は「元老」として内閣交代などの政局に関与しました。

国立国会図書館は、山縣の周囲に形成された官僚・軍人の勢力を「山県閥」と記しています。首相在任期間そのものより長く、官僚機構、陸軍、枢密院などを通じて政治との関係を保った人物でした。

制度面では、山縣が関わった近代軍制や官僚制、地方制度が、その後の日本政治に長く残りました。一方で、内相期の民権運動への取締り、第2次内閣期の治安警察法や軍部大臣現役武官制など、政治参加や政党政治との関係を考える際の論点も残しています。

椿山荘、無鄰菴、古稀庵に残るもう一つの顔

政治・軍事以外で山縣が強い関心を持ったものに庭園があります。1877年には東京・目白で椿山荘の造営に着手しました。

京都の無鄰菴、小田原の古稀庵にも山縣との深いゆかりがあります。国立公文書館は、山縣が庭園を造営しただけでなく、森鴎外ら文化人を集める場をつくったことも紹介しています。

山縣有朋は1922年2月1日に83歳で死去しました。同月、東京市の日比谷公園で国葬が行われました。

山縣有朋氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

地方自治制度

財政整理と新条約実施

衆議院議員選挙法改正

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政治人生の転機 山縣有朋の政治人生の転機
01
20歳頃
久坂玄瑞との出会いから松下村塾へ
京都で久坂玄瑞と出会ったのち、吉田松陰の松下村塾に入った。
なぜ転機なのか 長州藩の政治・軍事運動に関わる人脈へ入る節目となったため。
02
1869~1870年
欧州視察で兵制を研究
西郷従道と欧州へ渡り、英・仏・独・露などの制度、特に徴兵制度を調査した。
なぜ転機なのか 帰国後、兵部省で軍制整備と徴兵令制定に深く関与する前段となったため。
03
1889年12月
第3代内閣総理大臣へ
三条実美の臨時首相期を経て、第1次山縣内閣を組織した。
なぜ転機なのか 軍事・内務行政を担ってきた立場から政府全体を率いる首相へ移ったため。
04
1904年
日露戦争で参謀総長
日露戦争期に参謀総長として陸軍軍令の中枢を担った。
なぜ転機なのか 2度の首相経験後も軍事・政界の中枢に残り、元老期へ続く役割を担ったため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報

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