福田康夫の経歴・学歴と生い立ち|丸善石油から官房長官、第91代首相へ

福田康夫
ひと目でわかるプロフィール 福田康夫
ふくだ やすお
出身地
東京都世田谷区(出生当時:東京府東京市世田谷区)
初当選
1990年(第39回衆議院議員総選挙)
最終学歴
早稲田大学第一政治経済学部卒業
主な前職
会社員、国会議員秘書
政界入り
国会議員秘書から、政治家の後継として、民間企業から
生年月日 1936年7月16日
血液型 A型

福田康夫氏は、第91代内閣総理大臣を務めた政治家です。首相経験者という経歴がよく知られていますが、国政選挙への初出馬は53歳。そこへ至るまでには、戦争下での転居や疎開、麻布・早稲田での学生生活、そして丸善石油での長い会社員生活がありました。

政治家の家庭に生まれながら、若いころから議員として歩んだ人物ではありません。民間企業から父・福田赳夫氏の秘書へ転じ、衆議院議員、官房長官、自民党総裁、首相へ進んだ人生を時系列でたどります。

福田康夫氏を理解する3つのポイント
  1. 戦争期の移動と疎開を経験した後、政治へ直行せず丸善石油で17年余り働きました。
  2. 40歳で父・福田赳夫氏の秘書へ転じ、53歳で初当選した後、外交分野と官房長官職で政治経歴を重ねました。
  3. 参議院で与野党が逆転した時期に第91代首相となり、生活者行政、公文書管理、気候変動、アジア外交などに取り組みました。

福田康夫の生い立ち|南京、東京、群馬――戦争の中で過ごした少年期

福田康夫氏は1936年7月16日、東京府東京市世田谷区に生まれました。父は当時、大蔵省に勤務していた福田赳夫氏、母は三枝氏です。康夫氏は夫妻の長男でした。

幼いころの生活は、一つの土地にとどまりませんでした。1942年には父の仕事に伴って、当時日本軍の占領下にあった中国・南京で暮らしています。2025年のインタビューでは、父の仕事場を兼ねた2階建ての洋館で生活し、街へ映画を見に行った記憶も語っています。

戦況が悪化すると、家族は南京から東京へ急いで戻りました。東京の自宅では庭の芝生を掘り起こしてイモを育てるようになり、やがて空襲の危険が高まると、父の生家がある群馬県群馬郡金古町、現在の高崎市へ疎開します。東京に残っていた父の官舎も焼夷弾で全焼しました。

転居と疎開は、学校生活にも影響しました。福田氏は戦後80年を迎えた2025年、JNNの取材で当時を振り返っています。

「小学校、5回か6回変わりました。疎開するとか。」

出典:TBS NEWS DIG「“戦争を起こさないために政治家は何をすべきか” 戦争を経験した福田康夫元総理の証言」(2025年12月1日)

福田康夫の学歴|麻布中・高から早稲田大学へ

戦後、福田氏は麻布中学校、麻布高等学校へ進みました。その後は早稲田大学第一政治経済学部で学び、1959年3月に卒業しています。

父の赳夫氏はすでに政治の世界へ進んでいましたが、大学を出た康夫氏が選んだのは議員秘書ではありませんでした。卒業翌月から、石油会社で働き始めます。

丸善石油で17年余り――ロサンゼルス勤務も経験

1959年4月、福田氏は丸善石油株式会社に入社しました。現在のコスモ石油につながる会社です。国会議員になるまでの職業人生で最も長いのは、政治関係ではなく民間企業での勤務でした。

1962年3月からはアメリカのロサンゼルス支店へ赴任し、約2年間勤務しました。帰国後も丸善石油に在籍し、1976年まで会社員として働き続けています。

入社から退社まで17年余り。政治家の長男でありながら、40歳になるまで企業勤務を続けた経歴は、福田氏の人生をたどる際に外せない前半部分です。

福田康夫の経歴|40歳で福田赳夫氏の秘書へ――民間から政治の現場へ

転換が訪れたのは1976年です。福田氏は1976年11月に丸善石油を退社し、父・福田赳夫氏の議員秘書へ転じました。

同年12月には福田赳夫氏が内閣総理大臣に就任します。康夫氏は翌1977年に内閣総理大臣秘書官を経験し、企業の一員として働く生活から、首相と国政を身近で支える仕事へ移りました。

それでも、この時点では自身が選挙に出たわけではありません。秘書として政治に携わる期間を経た後、自ら衆議院議員を目指すのは1990年になってからでした。

53歳で初当選、「外交の福田」と呼ばれるまで

1990年2月、第39回衆議院議員総選挙で旧群馬3区から立候補しました。53歳での初出馬でトップ当選し、衆議院議員としての歩みが始まります。

1993年にも旧群馬3区で当選。小選挙区比例代表並立制となった1996年の総選挙からは群馬4区へ移り、以後も同選挙区で議席を維持しました。

国会では外交関係のポストを重ねます。外務政務次官や自由民主党外交部会長などを務め、群馬県の人物紹介でも、この時期に「外交の福田」と呼ばれるようになった経歴が記されています。

官房長官1289日――森・小泉両内閣の中枢へ

2000年10月27日、第2次森内閣で内閣官房長官として初入閣しました。沖縄開発庁長官も兼ね、沖縄科学技術大学院大学につながる設立構想の推進にも関わっています。

森内閣の後を継いだ小泉純一郎内閣でも官房長官に留任し、男女共同参画担当大臣も務めました。官房長官としての在任は通算1289日に及び、退任当時の歴代最長記録となりました。

外交案件では、首相の判断と相手国との関係調整の間に立つ場面もありました。2001年の小泉首相による靖国神社参拝をめぐっては、福田氏は後年、参拝を見送る案も議論したことや、日程決定後に中国側の唐家璇氏、王毅氏へ連絡したことを明かしています。

長期在任は2004年5月に終わります。国民年金保険料の未納問題が閣僚や政治家へ広がる中、自身にも未納期間があったことが明らかになり、5月7日に官房長官を辞任しました。

2007年、自民党総裁から第91代首相へ

2007年9月、安倍晋三首相が退陣を表明すると、自民党は後継総裁を選ぶことになりました。福田氏は麻生太郎氏と争い、9月23日の両院議員総会で330票を獲得。197票の麻生氏を上回り、第22代自由民主党総裁に選ばれました。

2日後の首相指名選挙では、衆議院が福田氏、参議院が民主党代表の小沢一郎氏を指名する異例の結果となります。両院の指名が一致せず、憲法上の衆議院の優越によって福田氏が首相に指名されました。

2007年9月26日、第91代内閣総理大臣に就任。父・福田赳夫氏も第67代首相を務めており、日本の憲政史上初めて親子二代で首相を務めることになりました。

福田氏は発足した政権を「背水の陣内閣」と表現しました。衆議院では自民・公明両党が多数を持つ一方、参議院では野党が多数を占める「ねじれ国会」の中での出発でした。

ねじれ国会、幻の大連立、そして退陣

政権発足直後から、参議院で野党の協力なしに法案や人事を進めることが難しい状況が続きます。2007年10月30日と11月2日には、福田首相と民主党の小沢一郎代表が党首会談を行い、自民・民主両党による連立政権構想まで話し合われました。

大連立構想は民主党内で受け入れられず、実現しませんでした。インド洋での海上自衛隊による給油活動を再開させる新テロ対策特別措置法も参議院で否決され、2008年1月、衆議院で再可決して成立させています。参議院で否決された法案を衆議院で再可決したのは57年ぶりでした。

2008年8月2日には大幅な内閣改造を行いましたが、その約1カ月後の9月1日、福田氏は退陣を表明します。会見では、次の国会を新しい体制で迎える方が政策を進めやすいとの判断を示しました。

「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたと違うんです。」

出典:データベース「世界と日本」「福田内閣総理大臣記者会見」(2008年9月1日)

9月24日に福田内閣は総辞職し、麻生太郎内閣へ交代しました。首相在職期間は365日です。

7期目の当選を経て、2012年に政界引退

首相退任後も衆議院議員を続け、2009年8月の第45回衆院選では群馬4区で7回目の当選を果たしました。この選挙では全国的に民主党が大勝し、自民党は政権を失いましたが、福田氏は小選挙区の議席を維持しています。

2012年9月、次の衆院選には立候補せず、今期限りで議員を引退する意向を表明しました。同年11月の衆議院解散を機に政界を引退し、1990年の初当選から続いた国会議員生活を終えました。

翌2013年には、内閣総理大臣や長年の国政での活動などを理由に、群馬県名誉県民に選ばれています。

人生年表 福田康夫さんの歩み
1936年7月16日
東京府東京市世田谷区で生まれる
福田赳夫・三枝夫妻の長男
1942年
父の勤務に伴い中国・南京で暮らす
戦況悪化に伴い東京へ帰国
1945年
群馬県群馬郡金古町へ疎開
現・高崎市
1959年3月
早稲田大学第一政治経済学部を卒業
1959年4月
丸善石油株式会社に入社
現・コスモ石油株式会社
1962年3月
ロサンゼルス支店に赴任
約2年間勤務
1976年11月
丸善石油を退社し福田赳夫氏の議員秘書となる
1977年
内閣総理大臣秘書官を務める
父・福田赳夫内閣を支える
1990年2月
第39回衆議院議員総選挙で初当選
旧群馬3区
2000年10月
内閣官房長官・沖縄開発庁長官として初入閣
第2次森内閣
2004年5月
内閣官房長官を辞任
国民年金保険料未納問題を受けて辞任
2007年9月23日
自由民主党総裁に選出
2007年9月26日
第91代内閣総理大臣に就任
憲政史上初の親子二代首相
2008年9月24日
福田内閣が総辞職
首相在職365日
2012年11月
衆議院解散を機に政界引退
同年9月に今期限りでの引退を表明

福田康夫氏が重視した政策・政治姿勢

消費者行政を「生活者」側へ組み替える

福田内閣が国内行政で前面に出したテーマの一つが、消費者行政の再編でした。2008年の施政方針演説では、それまで各省庁に分かれていた消費者行政を一元的に進める新組織の創設を打ち出しています。

「新組織は、国民の意見や苦情の窓口となり、政策に直結させ、消費者を主役とする政府のかじ取り役になるものです。」

出典:衆議院「第169回国会 本会議 第1号」(2008年1月18日)

その後、消費者行政推進会議で制度設計を進め、政府は消費者庁設置法案などをまとめました。福田内閣の退陣時点では法案審議が残っており、消費者庁が実際に発足したのは麻生内閣下の2009年9月です。

公文書を「国民共有の知的資源」として残す

公文書管理も福田氏が長く関わった行政課題です。官房長官時代から行政資料の保存・活用に関心を持ち、首相就任後には公文書管理制度の整備へ向けて有識者による検討を進めました。

公文書管理法そのものが成立したのは福田内閣退陣後の2009年です。福田氏は2018年、日本記者クラブで制度整備を進めた当時の考えを次のように説明しました。

「記録を残すのは、大げさに言えば歴史を積み上げている。」

出典:日本記者クラブ「『公文書管理を考える』(3) 福田康夫・元首相」(2018年6月1日)

薬害C型肝炎被害者の一律救済へ

薬害C型肝炎問題では、フィブリノゲン製剤などによる感染被害をめぐって複数の訴訟が続き、裁判所ごとに国や企業の責任を認める期間などの判断が分かれていました。

福田内閣は救済へ向けた政治判断を行い、2008年1月には「特定フィブリノゲン製剤及び特定血液凝固第IX因子製剤によるC型肝炎感染被害者を救済するための給付金の支給に関する特別措置法」が成立しました。法律は国の責任を明記し、対象となる被害者や遺族へ給付金を支給する仕組みを設けました。

低炭素社会と北海道洞爺湖サミット

気候変動は、福田内閣の外交と国内政策をまたぐテーマでした。2008年1月のダボス会議では「クールアース推進構想」を発表し、温室効果ガスの国別総量目標に取り組む方針と、途上国を支援する100億ドル規模の「クールアース・パートナーシップ」を表明しています。

同年7月の北海道洞爺湖サミットでは議長を務めました。G8は、世界全体の温室効果ガス排出量を2050年までに少なくとも50%削減する長期目標について、国連気候変動枠組条約の全締約国と共有し、採択を求めていくことで一致しました。

日中「戦略的互恵関係」の包括的推進

2008年5月には、中国の胡錦濤国家主席が国賓として来日しました。福田首相との会談後、両国は「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」を発表しています。

共同声明では、両国首脳の定期的な相互訪問、政府・議会・政党間の対話、青少年を含む人的・文化交流、環境やエネルギー、貿易、投資など幅広い協力を進める方針を確認しました。

男女共同参画と「2020年30%」

官房長官兼男女共同参画担当大臣を務めていた時期には、社会の指導的地位に占める女性の割合について、2020年までに少なくとも30%程度を目指す目標の設定に関わりました。

首相就任後の2008年にも男女共同参画会議でこの目標に触れ、当時の進捗を「決して満足すべき状況ではない」とした上で、政策・方針決定過程への女性の参画拡大やワーク・ライフ・バランスを含む施策の加速を求めています。

政界引退後も続く、アジアとの対話と人口・開発分野の活動

外交では対話の回路を重視

国会議員を退いた後も、福田氏はアジア外交に関する発言や交流活動を続けています。2017年の日中国交正常化45周年の時期には、日本記者クラブで北朝鮮情勢や中国との関係について語りました。

「中国と話をしていかないと解決の道はない」

出典:日本記者クラブ「福田康夫 元首相 会見」(2017年8月31日)

この会見時には日中交流促進実行委員会の最高顧問を務めており、相手側の事情を理解しながら時間をかけて交渉を続けることにも言及しています。

人口と開発を結びつける活動

もう一つ、長く関わってきたのが人口・開発分野です。アジア人口・開発協会(APDA)では、国境を越えた議員ネットワークや人口問題、経済・社会開発について発信してきました。

「それぞれの国の豊かさは、人口と経済力に大きく関係します。」

出典:APDA「インタビュー|福田康夫 元内閣総理大臣」(公開日記載なし・取材日2021年1月)
選挙歴 福田康夫の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第39回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
初出馬・初当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 88,445票 1位
第40回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
衆議院2期目
旧群馬 3区 自由民主党 当選 83,501票 2位
第41回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(小選挙区当選、比例北関東ブロック重複立候補)
小選挙区比例代表並立制導入後、群馬4区から当選
群馬 4区 自由民主党 当選 73,674票 1位
第42回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(小選挙区当選、比例北関東ブロック重複立候補)
衆議院4期目
群馬 4区 自由民主党 当選 94,517票 1位
第43回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(小選挙区当選、比例北関東ブロック重複立候補)
衆議院5期目
群馬 4区 自由民主党 当選 98,903票 1位
第44回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(小選挙区当選、比例北関東ブロック重複立候補)
衆議院6期目
群馬 4区 自由民主党 当選 118,517票 1位
第45回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし(比例重複立候補なし)
衆議院7期目。最後の国政選挙
群馬 4区 自由民主党 当選 103,852票 1位

福田康夫氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

日米同盟とアジア外交

非核三原則と核軍縮

年金制度と政府への信頼

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

映像で見る福田康夫氏

自由民主党公式YouTubeには、第22代総裁への就任時に行われた福田氏の記者会見が公開されています。文章だけでは伝わりにくい受け答えや話し方を確認できる映像です。

福田康夫氏の現在情報

2026年9月14日 時点
現在の主な役職
公益財団法人アジア人口・開発協会(APDA)理事長 一般財団法人日本インドネシア協会会長 一般財団法人日本アジア共同体文化協力機構(JACCCO)会長 一般社団法人日本スリランカ協会名誉会長

2012年の政界引退後も、人口・開発や日本とアジア各国との文化・人的交流に関する公益・民間活動を続けています。

政治人生の転機 福田康夫の政治人生の転機
01
1976年11月
17年余りの会社員生活から政治の現場へ
丸善石油を退社し、父・福田赳夫氏の議員秘書となった。
なぜ転機なのか 民間企業で働いてきた福田氏が、40歳で政治を職業として支える側へ移ったため。
02
1990年2月
53歳で衆議院議員に初当選
旧群馬3区から初出馬し、トップ当選した。
なぜ転機なのか 秘書から自ら選挙を戦う政治家へ立場が変わったため。
03
2007年9月
自民党総裁から第91代首相へ
自由民主党総裁選で選出され、3日後に内閣総理大臣へ就任した。
なぜ転機なのか 官房長官などを務めてきた立場から、政権を率いる首相へ移ったため。
04
2012年
衆議院議員7期で政界引退
9月に今期限りでの引退を表明し、11月の衆議院解散を機に政界を離れた。
なぜ転機なのか 22年余りの国会議員生活を終え、活動の軸を人口・開発や国際交流分野へ移したため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
報道・インタビュー

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