桂太郎の経歴・学歴と生い立ち|長州藩士から陸軍、3度の首相と桂園時代まで

桂太郎
ひと目でわかるプロフィール 桂太郎
かつら たろう
出身地
山口県萩市(萩城下平安古)
最終学歴
藩校明倫館
生年月日 1848年1月4日
没年月日 1913年10月10日

桂太郎は、幕末の長州藩士の家に生まれ、戊辰戦争を経て明治陸軍の制度づくりへ入り、やがて3度にわたり内閣総理大臣を務めた人物です。

軍人・軍政の実務者として歩み始めた桂が、政党の力が増していく明治末から大正初期にどのように政治基盤を広げ、最後には自ら新党づくりへ動いたのか。その生涯を時系列でたどります。

桂太郎氏を理解する3つのポイント
  1. 萩の藩士家庭から幕末の戦場と欧州留学を経験し、明治陸軍の軍政を担う立場へ進みました。
  2. 台湾総督・陸軍大臣を経て3度首相となり、明治後期の外交と戦争、条約改正を担いました。
  3. 西園寺公望・政友会との協調から新党構想へ進み、第3次内閣は第一次護憲運動の中で退陣しました。

桂太郎の生い立ち|萩城下で育った長州藩士の子|明倫館と幕末の戦場

桂太郎は弘化4年11月28日、現在の暦では1848年1月4日、長州藩の萩城下平安古に生まれました。父は長州藩士の桂与一右衛門です。

3歳のころに萩の川島へ移り、少年期は私塾で習字や漢文の素読を学びました。母方の叔父で、吉田松陰とも関係の深かった中谷正亮から学んだ時期もあり、世界地理書『坤輿図識』に触れています。

武芸を学び、毛利家の世子・毛利元徳の小姓を務める一方、長州藩校の明倫館にも通いました。幕末の政局が戦争へ向かうと軍事行動にも加わり、21歳ごろには戊辰戦争へ従軍しています。

桂太郎の学歴|フランス語を学びながらドイツへ|普仏戦争が変えた留学先

明治政府が成立した後の1869年、大村益次郎の勧めもあり横浜語学所へ入りました。当初学んだ外国語はフランス語です。海外へ出る準備の中で断髪脱刀も行い、旧来の武士の姿から離れていきました。

翌1870年、官費留学の見通しが揺らぐと語学所を離れ、私費でも欧州へ渡る道を選びます。当初の目的地はフランスでした。

しかし欧州では普仏戦争が進行中でした。フランスへ向かう途中でイギリスに滞在し、戦争の推移を見た桂は留学先をプロイセン、のちのドイツへ切り替えました。

ベルリンでは軍事学を学び、1873年末にいったん帰国します。1875年にはドイツ在留公使館付として再び渡欧し、軍事行政の調査だけでなく、ベルリン大学で法学・経済学・行政学などにも接しました。

学歴一覧桂太郎の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
藩校明倫館漢学・武芸など旧制度・比較不可長州藩の藩校
海外留学ドイツで軍制を研究軍事制度日本式の偏差値なし明治期の海外留学

※桂太郎の学歴は藩校と明治初期の海外留学が中心で、現代の高校・大学偏差値と直接比較できません。

ドイツで学んだ軍制を明治陸軍へ|参謀本部と陸軍次官

1878年に帰国すると、桂は山県有朋のもとで兵制・陸軍官制の改革に携わります。当時の日本陸軍はフランス式の影響が強く残っていましたが、普仏戦争後はドイツ式軍制への関心が高まっていました。

1878年12月には、陸軍省から軍令を扱う組織を分離する形で参謀本部が設けられました。アジア歴史資料センターは、ドイツ留学経験を持つ桂の献策が参謀本部誕生に関わったと説明しています。

その後は陸軍省総務局長などを経て、1886年に陸軍次官へ就任します。軍隊を直接指揮するだけでなく、制度・組織・行政を扱う軍政の経歴を長く積んだことが、桂の前半生の大きな特徴でした。

桂太郎の経歴|第3師団長から台湾総督、そして陸軍大臣へ

1891年、桂は第3師団長となりました。1894年に日清戦争が始まると同師団を率いて出征し、翌1895年まで戦地にありました。

1896年6月には第2代台湾総督に就任します。同年10月には東京防禦総督へ移り、1898年1月、第3次伊藤博文内閣で陸軍大臣となりました。

陸相としては第1次大隈重信内閣、第2次山県有朋内閣、第4次伊藤博文内閣でも留任します。藩閥・軍部の内部で蓄積した経験を背景に、陸軍行政だけでなく内閣政治の中枢へ入っていきました。

1900年、台湾協会学校を創立|政治とは別に残した教育活動

首相になる前年の1900年、桂は台湾協会会頭として台湾協会学校を創立し、初代校長に就任しました。現在の拓殖大学につながる学校です。

台湾や中国南部などで活動する人材の育成が学校設立時の目的に置かれ、桂は首相在任期を含めて約12年間、学校の基礎づくりに関わりました。

彼地(台湾・南清)に於いて公私の事業に従事する有為の才を養成する

出典:拓殖大学『語学研究』第141号「拓殖大学と外国語教育―『拓殖人材』育成を目指して―」(2019年)

1901年に初めて首相へ|日英同盟と日露戦争

1901年6月2日、桂は第11代内閣総理大臣となり、第1次桂内閣を組織しました。外務大臣には同年9月から小村寿太郎が入り、ロシアの東アジア進出を意識しながら外交路線を組み立てていきます。

英国との協約に進むべきか、ロシアとの調整を優先するべきかは政府内でも検討された問題でした。1901年12月、小村は日英協約を選択する意見を明確に示しています。

故に我邦に於ても此際断じて協約を結ぶの得策なるを信ず。

出典:外務省外交史料館「岐路に立つ外交官」(公開日記載なし)

翌1902年1月、第1回日英同盟協約が調印されました。1904年2月にはロシアとの交渉が決裂し、日露戦争が始まります。

戦争が長期化する中、日本政府は講和の機会も探り、1905年には米国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によってポーツマス講和会議が開かれました。小村が日本側全権として交渉し、9月5日に講和条約が調印されます。

講和条件に賠償金が含まれないことなどへの不満から東京では日比谷焼打事件が起き、政府は戒厳令に相当する措置をとりました。桂内閣は同年12月に総辞職へ進み、西園寺公望が1906年1月7日に次の内閣を組織しました。

西園寺公望との「桂園時代」|政党との距離が変わっていく

第1次桂内閣の後、政友会総裁の西園寺公望が首相となり、その後は桂と西園寺が交互に政権を担う時期が続きました。明治末のこの政権交代は「桂園時代」と呼ばれています。

桂は当初、特定政党に依存しない「一視同仁」を掲げました。一方、衆議院で多数を確保するには政党との調整が必要で、第2次桂内閣になると政友会との協力を強めます。

1911年1月、桂は政友会議員を招いた席で同党との「情意投合」を説きました。西園寺は2月7日の書簡で、その選択をこう受け止めています。

此度の御決断は実に時機を得たるもの

出典:国立国会図書館「西園寺公望書翰 桂太郎宛」(1911年2月7日)

第2次桂内閣|戦後内政、韓国併合、関税自主権回復

1908年7月14日に第2次桂内閣が成立しました。桂は首相と大蔵大臣を兼任し、日露戦争後の財政と社会情勢に向き合います。

同年10月には戊申詔書が発布されました。日露戦争後の社会状況を背景に、勤倹や共同一致などを求める内容で、内務省の平田東助らはその後、町村行政や産業振興などを通じた地方改良運動を進めました。

対外政策では1910年8月22日に日韓併合条約が調印され、同月29日に施行されました。これにより韓国は日本に併合され、日本による植民地統治の時代へ入ります。

翌1911年には小村寿太郎外相が米国をはじめ各国との新通商航海条約をまとめ、長く残っていた関税自主権の回復を実現しました。

第2次桂内閣は同年8月30日に退陣し、第2次西園寺内閣へ政権を引き継ぎました。

内大臣から3度目の首相へ|第一次護憲運動が拡大

1912年、桂は内大臣となり、宮中に近い立場へ移りました。その年の暮れ、第2次西園寺内閣は陸軍の二個師団増設問題をめぐって陸相が辞任し、後任を得られないまま総辞職します。

後継首相となったのが桂でした。1912年12月21日、第3次桂内閣が成立します。

しかし、宮中の内大臣だった桂が再び首相へ移ったことや、陸軍を背景とする政権交代への反発が広がりました。政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らを中心に「憲政擁護・閥族打破」を掲げる第一次護憲運動が全国へ広がります。

1913年2月5日の衆議院では、尾崎が桂内閣を厳しく批判しました。

常ニ玉座ノ蔭ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ挙動ヲ執ッテ居ルノデアル

出典:国会会議録検索システム「第200回国会 衆議院本会議第9号」掲載の尾崎行雄演説引用(2019年11月19日)

2月には多数の人々が国会周辺へ集まり、議会内外の対立が深まりました。桂内閣は政権維持が難しくなり、2月20日に退陣します。首相官邸の集計では第3次内閣の在職期間は62日でした。

立憲同志会の構想|藩閥・官僚政治から自らの政党づくりへ

第3次内閣の時期、桂はそれまでとは異なる政治基盤を作ろうとしていました。1913年2月7日、立憲同志会の創立宣言を発表し、自ら創立委員長となります。

宣言では、広く同志を集めて大きな政党を作り、議会政治の中で政策を実行する構想が示されました。

吾人の本領は経世の実績を挙けて済民の政務を行ふに存せり。

出典:国立国会図書館「立憲同志会綱領並政策案」(1913年2月)

桂が新党を構想した時点では、第3次内閣への反対運動はすでに大きくなっていました。退陣後も立憲同志会の結成準備は続きましたが、桂は正式な結党を見ることなく、1913年10月10日に死去します。

立憲同志会の結党式が行われたのは同年12月23日でした。桂の死後、加藤高明らが党を率い、政友会に対抗する勢力へ成長していきます。

人生年表 桂太郎さんの歩み
1848年1月4日
萩城下平安古に生まれる
長州藩士・桂与一右衛門の子
幼少期
萩の川島へ移り住む
私塾や藩校明倫館で学ぶ
1868年
戊辰戦争に従軍
長州藩側で参戦
1869年
横浜語学所で学ぶ
欧州派遣を念頭にフランス語を学習
1870年
ドイツへ留学
当初のフランス留学予定から渡航先を変更
1873年12月
最初のドイツ留学から帰国
翌年陸軍大尉
1875年3月
ドイツ在留公使館付となる
再び渡欧し軍政を研究
1878年
帰国し陸軍・太政官で勤務
兵制・陸軍官制改革に関与
1886年3月
陸軍次官に就任
1891年まで在任
1891年6月
第3師団長に就任
日清戦争に出征
1896年6月
第2代台湾総督に就任
同年10月に東京防禦総督へ
1898年1月
陸軍大臣に就任
伊藤・大隈・山県・伊藤各内閣で陸相を務める
1900年
台湾協会学校を創立
現在の拓殖大学の前身で初代校長
1901年6月2日
第1次桂内閣成立
初めて内閣総理大臣に就任
1902年1月
第1回日英同盟協約締結
第1次桂内閣期
1904年2月
日露戦争開戦
第1次桂内閣が戦時内閣となる
1905年9月
ポーツマス条約締結
日露戦争が講和へ
1906年1月7日
第1次桂内閣退陣
第1次西園寺内閣成立
1908年7月14日
第2次桂内閣成立
内閣総理大臣兼大蔵大臣
1910年8月
日韓併合条約締結
第2次桂内閣期
1911年
関税自主権回復
小村寿太郎外相が条約改正を進める
1911年8月30日
第2次桂内閣退陣
第2次西園寺内閣へ
1912年8月
内大臣に就任
のち侍従長を兼ねる
1912年12月21日
第3次桂内閣成立
3度目の首相就任
1913年2月7日
立憲同志会の創立宣言を発表
創立委員長として新党結成を進める
1913年2月20日
第3次桂内閣退陣
第一次護憲運動・大正政変の中で総辞職
1913年10月10日
死去
立憲同志会正式結党前に死去

政策・政治姿勢に見える5つの軸

  • 軍制改革:ドイツ軍制の研究を背景に、軍令を扱う参謀本部の独立など明治陸軍の制度整備に関与しました。
  • 同盟外交:第1次内閣では小村寿太郎を外相に置き、英国との同盟を外交上の選択肢として進めました。
  • 戦後内政:第2次内閣では戊申詔書と、それに続く地方改良運動が進められました。
  • 条約改正:第2次内閣期の1911年、小村外相による交渉で関税自主権回復に至りました。
  • 政党との関係:政党から距離を置く姿勢から政友会との協力へ進み、晩年には自ら立憲同志会の結成を目指しました。

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政党政治と公党の樹立

教育と立憲的智能

社会共済

国力充実と対外政策

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政治人生の転機 桂太郎の政治人生の転機
01
1870年
留学先をドイツへ変更
兵制研究のため欧州へ渡り、普仏戦争を背景に当初予定していたフランスからドイツへ留学先を変更した。
なぜ転機なのか 帰国後の兵制・陸軍官制改革へつながる専門知識を得る時期となった。
02
1898年
陸軍大臣として中央政治へ
第3次伊藤内閣で陸軍大臣となり、その後も複数の内閣で陸相を務めた。
なぜ転機なのか 軍政の実務者から内閣の中枢を担う政治家へ立場が変化した。
03
1901年6月
初の内閣総理大臣就任
第11代内閣総理大臣に就任し、第1次桂内閣を組織した。
なぜ転機なのか 陸軍・政府機構を中心に歩んできた桂が政権の最高責任者となった。
04
1912年12月~1913年2月
3度目の組閣と大正政変
第3次桂内閣を組織したが、第一次護憲運動が拡大し、1913年2月20日に退陣した。
なぜ転機なのか 従来の政治基盤だけでは議会・世論への対応が難しくなり、新党結成へ踏み出す中で政権を失った。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報

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