東條英機の経歴・学歴と生い立ち|陸軍軍人から第40代首相、開戦期の政権と東京裁判まで

東條英機
ひと目でわかるプロフィール 東條英機
とうじょう ひでき
出身地
東京都
最終学歴
陸軍大学校卒業(27期)
生年月日 1884年12月30日
血液型 B型
没年月日 1948年12月23日

東條英機の生い立ち|陸軍軍人の父を持ち、軍人の道へ進む

東條英機は1884年12月30日、東京に生まれました。父の東條英教も陸軍軍人で、のちに陸軍中将となった人物です。

英機は陸軍の教育課程へ進み、1905年3月に陸軍士官学校17期を卒業しました。翌4月に歩兵少尉となり、近衛歩兵第3連隊付などとして軍歴を始めます。

その後、1912年12月に陸軍大学校へ入り、1915年12月に27期として卒業しました。陸軍省副官などを務めたのち、軍の中央機構で勤務する機会が増えていきます。

東條英機の学歴|陸軍士官学校17期から陸軍大学校27期へ

東條英機は、陸軍軍人として長く軍務と軍政に携わり、1941年に第40代内閣総理大臣となった人物です。太平洋戦争開戦時の首相として知られますが、その経歴は陸軍士官学校卒業から約40年に及びます。

ここでは、軍人としての歩み、陸軍大臣から首相へ進んだ過程、日米交渉と開戦決定、戦時下の政治・経済運営、退陣、そして敗戦後の極東国際軍事裁判までを時系列でたどります。

東條英機を理解する3つのポイント
  1. 陸軍軍人の父を持ち、自身も陸軍士官学校・陸軍大学校を経て軍務と軍政の道を歩みました。
  2. 関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍大臣を経て、戦時下の内閣総理大臣となりました。
  3. 政権末期には軍需と統帥の要職も兼ね、退陣後は敗戦と極東国際軍事裁判を経験しました。
学歴一覧東條英機の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
軍学校陸軍幼年学校・陸軍中央幼年学校軍人養成旧制度・比較不可明治期の軍学校
士官学校陸軍士官学校軍事教育旧制度・比較不可17期
大学校陸軍大学校高等軍事教育旧制度・比較不可27期卒業

※東條英機の学歴は旧日本陸軍の教育制度によるものです。現代の高校・大学入試偏差値へ換算することは適切ではないため、数値は掲載していません。

東條英機の経歴|スイス・ドイツ駐在から参謀・軍政の仕事へ

1919年8月にはスイス駐在となり、1921年7月からはドイツに駐在しました。1922年11月に帰国すると陸軍大学校教官となり、翌年には参謀本部部員を兼ねています。

1926年には陸軍技術本部付兼軍務局課員、1928年には整備局動員課長となりました。作戦部隊だけではなく、軍の動員や組織を扱う職務を経験しています。

1929年8月には歩兵第1連隊長、1931年8月には参謀本部課長となり、1933年に少将へ進みました。その後も兵器本廠、陸軍士官学校、歩兵旅団などで勤務を重ねます。

関東憲兵隊司令官から関東軍参謀長、陸軍中央へ

1935年9月、東條は関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長となりました。1936年12月に中将へ進み、1937年3月には関東軍参謀長に就任します。

1938年5月には陸軍次官となり、航空本部長を兼ね、同年12月には航空総監兼航空本部長へ移りました。軍政と航空行政にも職務の範囲を広げていきます。

そして1940年7月、第2次近衛内閣の陸軍大臣に就任しました。第3次近衛内閣でも陸相を続け、首相就任直前までその職にありました。

陸軍大臣時代に示達された「戦陣訓」

陸軍大臣在任中の1941年1月8日、「戦陣訓」が陸軍部内に示達されました。戦場における軍人の行動規範を示した文書で、後世まで広く知られる一節を含んでいます。

生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ

出典:国立国会図書館 レファレンス協同データベース「昭和16年頃、東条英機がつくったとされる『戦陣訓』の内容を知りたい。」(事例作成日:2006年2月19日)

この時点の東條は首相ではなく、近衛内閣の陸軍大臣でした。1941年には日米関係がさらに緊迫し、政府内では対米交渉と軍事方針をめぐる調整が続きます。

近衛内閣総辞職から第40代首相へ

1941年10月16日、第3次近衛内閣は閣内の意見対立を背景に総辞職しました。その2日後の10月18日、東條内閣が成立し、第40代内閣総理大臣に就任します。

組閣時には陸軍大臣を引き続き兼ね、内務大臣も兼任しました。軍人として昇進してきた東條が、政府全体を率いる首相の職に就いたことになります。

ただし、首相就任と同時に開戦が自動的に決まったわけではありません。10月23日に開かれた東條内閣最初の大本営政府連絡会議では、それまでの国策を改めて検討する作業が始まりました。

国策の再検討から対米英蘭開戦決定まで

10月23日の会議で東條は、新任の閣僚もいるため十分に検討し、政府として責任を持てる方針にしたいとの趣旨を述べています。その後、物資、作戦、外交などをテーマに連日の検討が続きました。

10月30日には、戦争を避けて耐える案、直ちに開戦を決意する案、開戦の決意のもとで作戦準備を進めながら外交交渉を続ける案という三つの方向が示されました。11月5日の御前会議では対米交渉の甲案・乙案と「帝国国策遂行要領」が決定され、外交と軍事準備が並行して進められます。

11月下旬まで交渉が続いたものの妥結には至らず、12月1日の御前会議で「帝国は米英蘭に対し開戦す」と正式に決定されました。12月8日、日本はアメリカ、イギリスとの戦争に入りました。

開戦から8日後、第78回帝国議会で東條は、戦争を継続する国民に向けて次のように述べています。

凡そ戰ひの要訣は必勝の信念にあります

出典:データベース「世界と日本」『施政方針演説/東條英機内閣総理大臣/第78回帝国議会』(演説日:1941年12月16日)

緒戦期から翼賛選挙へ

開戦後、日本軍は東南アジアや太平洋各地へ進攻しました。シンガポール陥落後の1942年2月、東條は戦果を語る一方、そこで戦争が終わるとの見方を退けています。

戰爭は正に今後にあるのであります

出典:データベース「世界と日本」『大東亞經綸に關する帝國國策闡明に就ての演説』(演説日:1942年2月16日)

同年2月18日、内閣は「翼賛選挙貫徹運動基本要項」を決定しました。4月30日の第21回衆議院議員総選挙、いわゆる翼賛選挙では、翼賛政治体制協議会の推薦候補が当選者の8割以上を占めます。

選挙後には衆議院の各会派が解散し、5月20日に翼賛政治会が発足しました。多くの衆議院議員が同会に加入し、戦時下の議会政治も大きく再編されました。

戦局の長期化と軍需生産の集中

1942年以降、戦争は長期化します。1943年9月には政府と軍が「絶対国防圏」を設定し、その維持を前提とした戦争指導が進められました。

同年11月には、商工省や企画院などの機能を再編して軍需省が設置され、東條が初代軍需大臣を兼任しました。特に航空機をはじめとする軍需生産を一元的に統轄する体制が整えられます。

その直前の第83回帝国議会では、生産力の増強を政府運営の中心に据える姿勢を明確にしていました。

吾々國民の果すべき責務は、唯一途に戰力を急速に増強するにあるのであります

出典:データベース「世界と日本」『施政方針演説/東條英機内閣総理大臣/第83回帝国議会』(演説日:1943年10月26日)

参謀総長兼任と東條内閣の退陣

1944年に入ると、東條自身の演説でも戦況への危機感が強く表れるようになります。1月の第84回帝国議会では、戦争の行方について次の言葉を残しました。

最後の勝敗の岐れ目は眞に紙一重であります

出典:データベース「世界と日本」『施政方針演説/東條英機内閣総理大臣/第84回帝国議会』(演説日:1944年1月21日)

翌2月、東條は参謀総長も兼任します。すでに首相、陸軍大臣、軍需大臣を兼ねており、政府の国務と陸軍の統帥にまたがる職を同時に担う状態となりました。

しかし米軍の進攻は続き、1944年7月にはサイパン島の日本軍守備隊が壊滅しました。7月22日に小磯国昭内閣が成立し、東條の首相在任は終了します。東條は同月、予備役となりました。

敗戦後の自殺未遂と極東国際軍事裁判

1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、戦争は終結しました。9月11日、戦争犯罪容疑者として逮捕の動きが迫るなか、東條は拳銃で自殺を図りましたが一命を取り留めました。

その後、東條は極東国際軍事裁判の被告となります。裁判は1946年5月3日に開廷しました。起訴された被告は28人で、公判中に死亡した2人と免訴となった1人を除く25人に判決が下されています。

1948年11月12日、東條を含む7人に絞首刑が言い渡されました。同年12月23日に刑が執行され、東條は63歳で死去しました。

人生年表 東條英機さんの歩み
1884年12月30日
東京に生まれる
父は陸軍軍人の東條英教
1905年3月
陸軍士官学校を卒業
第17期
1915年12月
陸軍大学校を卒業
第27期
1919年8月
スイス駐在となる
欧州勤務へ
1921年7月
ドイツ駐在となる
1922年11月
帰国し陸軍大学校教官となる
のち参謀本部部員を兼務
1929年8月
歩兵第1連隊長に就任
1935年9月
関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に就任
1937年3月
関東軍参謀長に就任
1938年5月
陸軍次官に就任
1940年7月
陸軍大臣に就任
第2次・第3次近衛内閣
1941年10月18日
第40代内閣総理大臣に就任
陸軍大臣・内務大臣も兼任
1941年12月1日
御前会議で対米英蘭開戦を決定
12月8日に米英との戦争開始
1943年11月
軍需大臣を兼任
初代軍需大臣
1944年2月
参謀総長を兼任
1944年7月
東條内閣が退陣
予備役となる
1945年9月11日
連合国側の逮捕を前に自殺を図る
一命を取り留める
1946年5月3日
極東国際軍事裁判が開廷
被告の一人として審理を受ける
1948年11月12日
極東国際軍事裁判で死刑判決
1948年12月23日
死去
死刑判決が執行される

東條英機の政策・政治姿勢|戦時統制と動員

軍需生産を優先した経済運営

戦争遂行に必要な生産を優先するため、物資、労働力、資金、電力などを重点部門へ集中する政策が進められました。軍需省は鉱工業製品や原材料の生産・配給・価格、民間工場の利用、労務管理、電力、石油など広い分野を所管しました。

航空機の増産も主要な目的でした。軍需生産を複数官庁にまたがる行政から一元的な統轄へ近づけようとした制度で、戦争後半の国内経済運営を象徴する官庁の一つとなりました。

労務・物資・金融まで広がった統制

東條内閣期には、国民勤労報国協力令、労務調整令、企業許可令、物資統制令などが相次いで運用・制定されました。1942年には日本銀行法も制定され、戦時経済を支える金融制度の再編が進んでいます。

こうした措置は、軍事作戦だけではなく、企業活動、労働、物資配分、金融、国民生活までを戦争遂行へ組み込む総力戦体制の一部でした。

政府と軍の意思決定

東條が首相だった時期の重要国策は、内閣総理大臣一人だけで決める仕組みではありませんでした。政府と陸海軍が参加する大本営政府連絡会議、天皇臨席の御前会議などを通じて方針が決定されています。

一方で、東條自身は首相と陸軍大臣を長期間兼ね、政権後半には軍需大臣、さらに参謀総長も兼ねました。個々の政策や開戦決定を検討する際には、東條個人の役割と、当時の政府・統帥機構による合議・決定過程の双方を史料から追う必要があります。

東條英機氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

開戦後の戦争遂行

戦時下の言論・集会等の統制

航空戦力と軍需生産

戦況認識と総動員

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

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政治人生の転機 東條英機の政治人生の転機
01
1940年7月
近衛内閣の陸軍大臣へ
第2次近衛内閣で陸軍大臣に就任し、第3次近衛内閣でも続投した。
なぜ転機なのか 軍内部の要職から政府中枢の閣僚へ立場が移ったため。
02
1941年10月18日
第40代内閣総理大臣に就任
近衛内閣総辞職後、首相となり陸軍大臣・内務大臣も兼任した。
なぜ転機なのか 軍人・陸相から政府首班へ立場が変わったため。
03
1944年7月
東條内閣の退陣
戦局悪化のなか東條内閣が終わり、東條は予備役となった。
なぜ転機なのか 首相・陸相・参謀総長など政府と軍の中枢から退いたため。
04
1945年~1948年
逮捕、自殺未遂、東京裁判
1945年9月に自殺を図って一命を取り留め、のち極東国際軍事裁判の被告となり、1948年に死刑判決が執行された。
なぜ転機なのか 敗戦後、戦時期の政府指導者から国際軍事裁判の被告へ立場が変わったため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報

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