田中角栄は、大学や官僚組織を経ず、土木の仕事と会社経営から政治の世界へ進み、内閣総理大臣まで上り詰めた政治家です。
新潟で過ごした少年時代から上京後の仕事、初めての選挙での落選、16期に及ぶ衆議院議員生活、首相就任、そして政界を去るまで、その歩みを時系列でたどります。
- 新潟の農村から上京し、働きながら中央工学校夜間部で土木を学び、建設業を起こしました。
- 1946年の初出馬では落選しましたが、翌年に初当選し、大臣や自民党幹事長を経て1972年に首相へ就任しました。
- 日本列島改造論と日中国交正常化を進めた一方、退陣後はロッキード事件の裁判と脳梗塞が政治人生を大きく変えました。
新潟の農村で育った少年時代
田中角栄は1918年5月4日、新潟県刈羽郡二田村に生まれました。現在の柏崎市西山町にあたる地域です。
農村で育ち、1933年に二田尋常高等小学校を卒業しました。家計に余裕のある家庭ではなく、そのまま旧制中学校へ進むのではなく、若くして働く道へ進みます。
地元で土木関係の仕事を経験した後、1934年に東京へ出ました。のちに首相となる人物の出発点にあったのは、政治や行政ではなく、土木の現場で働きながら技術を身につける生活でした。
働きながら中央工学校で土木を学ぶ
上京後は井上工業に住み込みで働くなど、いくつかの仕事を経験しました。その一方、夜は中央工学校の土木科へ通います。
1936年3月、中央工学校夜間部土木科を卒業。その後は建築関係の仕事に入り、1937年には共栄建築事務所を開いて独立しました。
1939年には兵役に就き、満州へ渡ります。病気を患って帰国し、1941年に除隊すると、東京で田中建築事務所を開設しました。
さらに1943年、田中土建工業を創業します。現在の田中土建工業も、会社の沿革で1943年に田中角栄が創業したことを記録しています。
政治家になった後も中央工学校との関係は続き、第五代校長を務めました。1968年の卒業式では、卒業生を前にこう語っています。
どうぞ諸君、人生はこれからです。
出典:中央工学校「第五代校長」(2025年7月31日)
1946年の落選を経て、28歳で衆議院議員へ
終戦後、建設会社を経営していた田中角栄は政治の世界へ向かいます。
1946年4月の第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党から出馬しましたが、定数8の新潟2区で11位となり、最初の選挙は落選でした。
翌1947年4月、第23回総選挙では新潟3区から民主党公認で立候補。39,043票を得て3位で初当選し、28歳で国会議員となりました。
その後、民主自由党、自由党を経て、1955年の保守合同後は自由民主党に所属します。
議員生活の初期には炭鉱国管疑獄にも直面しました。1948年に逮捕・起訴され、一審では有罪判決を受けましたが、1951年の控訴審で無罪となっています。
郵政相・大蔵相・幹事長を経て自民党の中枢へ
1957年7月、第1次岸内閣で郵政大臣となり、初めて入閣しました。39歳でした。
1961年には自民党政務調査会長、1962年7月には池田内閣の大蔵大臣に就任。佐藤内閣でも大蔵大臣を続け、1965年には自民党幹事長を務めました。
自民党幹事長には1965年と1968年の2度就任し、1971年7月には第3次佐藤内閣改造内閣の通商産業大臣となります。
初当選から四半世紀を経たころには、若手議員だった田中角栄は、党内の次期総裁を争う位置まで進んでいました。
1972年、54歳で内閣総理大臣に就任
1972年6月、田中角栄は著書『日本列島改造論』を刊行しました。大都市への人口と産業の集中を見直し、交通網や地方都市の整備などを通じて、国土の使い方を変えていく構想でした。
同年7月5日の自民党総裁選で福田赳夫を破って第6代総裁に就任。2日後の7月7日、54歳で第64代内閣総理大臣に就任しました。
『日本列島改造論』はもともと田中自身の著書でした。首相就任後、その方向性を政府の政策へどう落とし込むのかが国会でも議論されます。
1972年11月の衆議院予算委員会では、大都市への集中を転換する必要性について次のように答弁しました。
流れは全く逆にしなければなりません。
出典:国会会議録「第70回国会 衆議院予算委員会 第5号」(1972年11月8日)
一方で、列島改造への期待が広がる過程では地価上昇や土地投機も問題になりました。1973年には第1次石油危機が重なり、政府は公共事業の繰り延べや総需要抑制へ政策を転換します。
首相就任から約3か月で日中国交正常化
田中内閣発足直後から大きな外交課題となったのが、中国との国交正常化でした。
自民党総裁に選ばれた1972年7月5日、田中角栄は記者会見で国交正常化について明確な姿勢を示しています。
日中国交正常化の機は熟していると思う
出典:外務省『外交青書 1973年版』(1973年)
9月25日、田中首相は大平正芳外相らと北京へ向かい、周恩来首相との首脳会談を重ねました。27日には毛沢東主席とも会見しています。
そして9月29日、日本政府と中華人民共和国政府は共同声明に署名。日中国交正常化が実現しました。署名者は日本側が田中角栄首相と大平正芳外相、中国側が周恩来首相と姫鵬飛外交部長でした。
列島改造だけではない田中内閣の政策
田中内閣の代名詞になったのは日本列島改造ですが、政権後半は物価と国民生活への対応に多くの時間を割きました。
1973年度予算では社会保障関係費を大きく増やし、「福祉元年」と呼ばれる政策を進めました。年金の引き上げなどが実施され、翌年度には厚生年金などへ物価スライド制が導入されています。
石油危機後には「石油需給適正化法」「国民生活安定緊急措置法」を成立させ、石油や生活物資の供給、価格への緊急対応を進めました。
1974年には国土利用計画法を制定し、国土行政を担う国土庁も発足します。列島改造の構想をそのまま押し進めたのではなく、インフレと石油危機を受けて政策運営は大きく修正されました。
| 年月日 | 選挙 | 選挙区・地域 | 所属 | 結果 | 得票・順位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1946年 4月10日 |
第22回衆議院議員総選挙
初出馬。候補37人中11位
|
新潟2区(大選挙区) | 日本進歩党 | 落選 | 34,060票 11位 |
| 1947年 4月25日 |
第23回衆議院議員総選挙
初当選
|
新潟 3区 | 民主党 | 当選 | 39,043票 3位 |
| 1949年 1月23日 |
第24回衆議院議員総選挙
2回目の当選
|
新潟 3区 | 民主自由党 | 当選 | 42,536票 2位 |
| 1952年 10月1日 |
第25回衆議院議員総選挙
3回目の当選
|
新潟 3区 | 自由党 | 当選 | 62,788票 1位 |
| 1953年 4月19日 |
第26回衆議院議員総選挙
4回目の当選
|
新潟 3区 | 自由党(吉田派) | 当選 | 61,949票 1位 |
| 1955年 2月27日 |
第27回衆議院議員総選挙
5回目の当選
|
新潟 3区 | 自由党 | 当選 | 55,242票 2位 |
| 1958年 5月22日 |
第28回衆議院議員総選挙
6回目の当選
|
新潟 3区 | 自由民主党 | 当選 | 86,131票 1位 |
| 1960年 11月20日 |
第29回衆議院議員総選挙
7回目の当選
|
新潟 3区 | 自由民主党 | 当選 | 89,892票 1位 |
| 1963年 11月21日 |
第30回衆議院議員総選挙
8回目の当選
|
新潟 3区 | 自由民主党 | 当選 | 113,392票 1位 |
| 1967年 1月29日 |
第31回衆議院議員総選挙
9回目の当選
|
新潟 3区 | 自由民主党 | 当選 | 122,756票 1位 |
| 1969年 12月27日 |
第32回衆議院議員総選挙
10回目の当選
|
新潟 3区 | 自由民主党 | 当選 | 133,042票 1位 |
| 1972年 12月10日 |
第33回衆議院議員総選挙
首相在任中。11回目の当選
|
新潟 3区 | 自由民主党 | 当選 | 182,681票 1位 |
| 1976年 12月5日 |
第34回衆議院議員総選挙
自由民主党離党後。12回目の当選
|
新潟 3区 | 無所属 | 当選 | 168,522票 1位 |
| 1979年 10月7日 |
第35回衆議院議員総選挙
13回目の当選
|
新潟 3区 | 無所属 | 当選 | 141,285票 1位 |
| 1980年 6月22日 |
第36回衆議院議員総選挙
14回目の当選
|
新潟 3区 | 無所属 | 当選 | 138,598票 1位 |
| 1983年 12月18日 |
第37回衆議院議員総選挙
ロッキード事件一審判決後。15回目の当選
|
新潟 3区 | 無所属 | 当選 | 220,761票 1位 |
| 1986年 7月6日 |
第38回衆議院議員総選挙
脳梗塞で倒れた後の総選挙。16回目、最後の当選
|
新潟 3区 | 無所属 | 当選 | 179,062票 1位 |
首相退陣とロッキード事件
1974年、田中角栄の資産形成や人脈をめぐる「金脈問題」が大きく報じられました。同年11月26日に退陣の意思を表明し、12月9日に首相を退任します。
首相在職は第1次、第2次内閣を合わせて886日でした。
さらに1976年、米ロッキード社の航空機売り込みをめぐる事件で逮捕され、その後起訴されました。自民党を離党しますが、同年12月の総選挙には無所属で立候補し、168,522票を得て新潟3区1位で当選しています。
1983年10月、東京地方裁判所は田中角栄に懲役4年、追徴金5億円の判決を言い渡しました。田中側は控訴します。
その約2か月後に行われた第37回総選挙では、無所属で220,761票を獲得して再び1位当選しました。
1987年7月、東京高等裁判所は一審判決を支持して控訴を棄却し、田中側は最高裁へ上告しました。
田中角栄本人については、最高裁で審理中だった1993年に死去したため、本人に対する一審・二審の有罪判決は確定判決には至っていません。
脳梗塞で倒れ、16期の議員生活に区切り
田中角栄の政治活動を大きく変えたのが、1985年2月27日の脳梗塞でした。入院後は後遺症もあり、それまでのような政治活動は難しくなります。
それでも1986年7月の第38回総選挙に無所属で立候補し、179,062票を獲得。16回目の当選も新潟3区1位でした。これが最後の選挙となります。
次の総選挙には立候補せず、1990年1月の衆議院解散をもって国会議員生活を終えました。
1947年の初当選から約43年。最初の落選を含めると17回の衆議院選挙に立候補し、16回当選したことになります。
1993年12月16日、田中角栄は75歳で死去しました。新潟から上京して土木を学んだ青年は、建設会社経営、国会議員、大臣、自民党総裁を経て首相となり、戦後日本政治の長い一時代を歩みました。
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生年月日、出身地、第1次田中内閣、首相就任日、閣僚構成を確認
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第2次田中内閣、退任日、在職日数、通算在職886日を確認
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自民党総裁在任、列島改造、日中国交正常化、石油危機への対応、社会保障政策、退陣経緯を確認
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1972年の正常化交渉、田中総裁発言、訪中、毛沢東・周恩来との会談、共同声明署名を確認
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1972年9月29日の共同声明、署名者、合意内容を確認
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日本列島改造論についての田中首相本人答弁を確認
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田中角栄著、日刊工業新聞社、1972年刊行の書誌情報を確認
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本人が少年期から政界入りまでを振り返った自伝資料の書誌情報を確認
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中央工学校校長歴、1968年卒業式での本人の式辞を確認
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1943年に田中角栄が同社を創業した事実を確認
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1986年7月6日執行の第38回衆議院議員総選挙に関する衆議院事務局資料の書誌情報を確認
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1947年から1986年までの旧新潟3区における各選挙の得票、順位、党派、定数を確認
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