吉田茂の経歴・学歴と生い立ち|外交官から首相、講和と戦後復興を担った歩み

吉田茂
ひと目でわかるプロフィール 吉田茂
よしだ しげる
出身地
東京都
初当選
1947年(第23回衆議院議員総選挙)
最終学歴
東京帝国大学法科大学卒業
主な前職
官僚・国家公務員
政界入り
官僚から
生年月日 1878年9月22日
血液型 O型
没年月日 1967年10月20日

吉田茂氏は、長い外交官生活を経て、敗戦後の日本で内閣総理大臣を5次にわたって務めた政治家です。占領期から独立回復へ向かう時代の政権を担い、外交、経済、食料、安全保障、政党政治の難題に向き合いました。

政治家として知られる時期より前には、横浜と大磯で過ごした少年時代があり、中国や欧州を歩いた外交官としての約30年があります。晩年に再び生活の中心となった大磯まで、その歩みを時系列でたどります。

吉田茂氏を理解する3つのポイント
  1. 外交官として中国・欧州を歩き、戦後に国政の中心へ移った人物です。
  2. 首相在任中は、占領期の制度転換、生活と経済の再建、講和交渉を担いました。
  3. 独立回復後は安全保障と党内対立に向き合い、退陣後も大磯に多くの政財界人が訪れました。

吉田茂の生い立ち|東京に生まれ、横浜と大磯で育った少年時代

吉田茂氏は1878年9月22日、東京で生まれました。実父は土佐出身の自由民権運動家・竹内綱で、茂はその五男でした。

3歳のとき、横浜で貿易商を営んでいた吉田健三の養子となります。以後は横浜の吉田家で育ち、養父とともに大磯の別荘もしばしば訪れました。

大磯では山で狩りをしたり、海辺で砂遊びをしたりしていたことが町の資料に残っています。後年、首相退任後の生活の中心となる土地には、すでに幼少期から親しんでいました。

耕余義塾の作文に残る13歳ごろの吉田茂

横浜の太田小学校を卒業すると、1889年に現在の藤沢市域にあった私塾・耕余塾へ入りました。入塾直後に耕余義塾へ改称した学校で、漢学に加えて英語や欧米の歴史、法制度なども学んでいます。

大磯町郷土資料館には、塾生時代に書いた作文が6点残っています。本人が後年振り返ったところでは13~14歳ごろの文章とみられ、その一つ「国家の礎、急務」には次の一節があります。

「断々乎として教育にあると云う」

出典:大磯町郷土資料館「耕余義塾時代の作文」(2021年5月23日)

吉田茂の学歴|東京帝国大学法科大学で学び外交官へ

その後、東京帝国大学法科大学へ進み、1906年に卒業しました。同年、外務省に入り、政治家になる以前の長い外交官生活が始まります。

吉田茂の経歴|中国と欧州を歩いた外交官時代

外務省入省後は中国勤務が長く、奉天、安東、済南、天津などで経験を重ねました。第一次世界大戦後のパリ講和会議にも日本代表団の全権随員として関わり、1925年には奉天総領事となっています。

1928年には外務次官に就任し、田中義一、浜口雄幸両内閣の時期に1930年まで務めました。その後はイタリア、イギリスの大使を歴任し、1936年には駐英国大使となります。

外交官としての肩書とは別に、本人が使っていた品も外交史料館に残されています。

1939年に外務省を退官しましたが、外交の世界で築いた人間関係はその後も続きました。大磯町郷土資料館では、外交官・澤田廉三と、その妻で社会事業家の澤田美喜を含む三者の接点も資料から掘り起こしています。

戦争末期の和平工作と憲兵隊による逮捕

退官後、日本が戦争を続けるなかで、吉田氏は早期終戦を求める動きに関わりました。大磯では樺山愛輔、池田成彬、原田熊雄らと和平をめぐって話し合った記録が残っています。

1945年4月、こうした和平工作に関わった吉田氏は憲兵隊に逮捕され、約40日間拘束されました。外務省を離れていた時期の出来事であり、終戦の数か月前でした。

釈放後の同年8月に戦争が終わると、吉田氏の立場は急速に変わります。長く外国との交渉に携わってきた外交官が、敗戦処理を担う政府の一員として戻ることになります。

外務大臣から首相へ、鳩山一郎の公職追放で開いた道

1945年9月、東久邇宮内閣で外務大臣に就任し、続く幣原喜重郎内閣でも外相を務めました。12月には貴族院議員となり、戦前の外交官から戦後政治の当事者へと立場を移していきます。

1946年春、日本自由党を率いていた鳩山一郎が公職追放となりました。吉田氏はその後を受けて党総裁となり、同年5月22日、第1次吉田内閣を組織して内閣総理大臣に就任しました。

この時点では、吉田氏はまだ衆議院議員ではありません。第1次内閣のもとで1946年11月に日本国憲法が公布され、翌1947年5月に施行されました。

衆議院への初出馬は1947年4月の第23回総選挙です。高知県全県区から日本自由党公認で立候補し、68歳で初当選しました。実父・竹内綱の出身地は高知でしたが、吉田氏本人の出生地は東京です。

この総選挙後、第1次吉田内閣は5月24日に総辞職し、片山哲内閣へ政権が移りました。吉田氏が再び首相になるのは翌1948年です。

首相再登板後の経済再建――統制、食料、貿易への考え

芦田均内閣の退陣後、1948年10月15日に第2次吉田内閣が成立しました。翌1949年の総選挙を経て第3次内閣を組織し、その後の講和まで続く長い政権運営に入ります。

敗戦直後には物資不足とインフレが続き、多くの経済活動が統制下にありました。1948年12月の参議院予算委員会で、統制をどこまで残すのかを問われた吉田氏は、次のように答えています。

「成るべく統制は外したい。單に最も必要なるものだけ残すということにしたい。」

出典:国会会議録検索システム「第4回国会 参議院予算委員会 第8号」(1948年12月12日)

復興期には、食料の確保も政府にとって切迫した課題でした。国内生産だけでは不足する分を輸入で補う必要があり、1950年3月の国会答弁では優先順位を明言しています。

「国民の食糧を確保するということを先ず第一に考えております。」

出典:国会会議録検索システム「第7回国会 参議院本会議 第28号」(1950年3月15日)

外交上の対立と貿易をどう扱うかについては、1953年の国会で共産主義国との通商を問われています。吉田氏は政治体制の違いだけを理由に貿易を否定しない考えを示しました。

「その国の政治、思想がどうであろうが、貿易は別であるという持論は、いまなお堅持いたしております。」

出典:国会会議録検索システム「第16回国会 衆議院昭和二十八年度一般会計暫定予算につき同意を求めるの件外六件特別委員会 第5号」(1953年5月26日)
人生年表 吉田茂さんの歩み
1878年9月22日
東京で生まれる
実父は竹内綱、幼少期に吉田健三の養子となる
1889年
耕余塾に入る
横浜の太田小学校卒業後、現在の藤沢市域にあった私塾で学ぶ
1906年
東京帝国大学法科大学を卒業
同年、外務省に入省
1918~1919年
パリ講和会議に関わる
日本全権随員として欧州へ
1925年
奉天総領事に就任
1928年
外務次官に就任
1930年まで務める
1936年
駐英国大使に就任
1939年
外務省を退官
1945年4月
和平工作に関わり憲兵隊に逮捕される
約40日間拘束される
1945年9月
外務大臣に就任
東久邇宮内閣、続く幣原内閣で外相を務める
1945年12月
貴族院議員となる
1946年5月22日
第1次吉田内閣が発足
内閣総理大臣に初就任
1947年4月25日
第23回衆議院議員総選挙で初当選
高知県全県区
1948年10月15日
第2次吉田内閣が発足
1949年2月16日
第3次吉田内閣が発足
1951年9月8日
サンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約に署名
日本側首席全権として講和会議に参加
1952年4月28日
サンフランシスコ平和条約が発効
日本が主権を回復
1952年10月30日
第4次吉田内閣が発足
1953年3月14日
衆議院を解散
後に「バカヤロー解散」と呼ばれる
1953年5月21日
第5次吉田内閣が発足
1954年12月10日
内閣総理大臣を退任
5次にわたる吉田内閣が終わる
1960年11月20日
第29回衆議院議員総選挙で7回目の当選
最後の衆議院選挙
1965年
大磯町初の名誉町民となる
1967年10月20日
大磯の自邸で死去
1967年10月31日
日本武道館で国葬

吉田茂の政策・政治姿勢|講和と戦後外交

戦後処理の大きな課題として残っていたのが、連合国との講和でした。1951年8月、日本政府は吉田氏を首席全権とする全権団の構成を米国側へ伝え、9月のサンフランシスコ平和会議へ向かいました。

渡米の過程を伝える物証も外交史料館に保存されています。

平和会議は9月4日から8日まで開かれました。吉田氏は各国との協議にも当たり、7日夜の全体会議で日本側の受諾演説を行っています。

その演説原稿には、会議場で直前まで準備が続いた様子も残されています。

翌8日、サンフランシスコ平和条約の署名式が行われ、日本を含む49か国が署名しました。日本国内での批准を経て、1952年4月28日に条約が発効し、日本は主権を回復しました。

吉田氏にとっては、若い外交官としてパリ講和会議に関わった経歴を持ちながら、30年以上後には敗戦国日本の首相兼首席全権として新たな講和条約に署名することになりました。

旧日米安全保障条約と「再軍備」をめぐる答弁

平和条約の署名と同じ1951年9月8日午後、吉田氏は旧日米安全保障条約にも署名しました。日本側の署名者は吉田氏一人で、条約は米軍が日本国内に配備される根拠を置いていました。

一方で、日本自身がどこまで防衛力を持つのかは国会で繰り返し問われました。平和条約と安全保障条約の審議中だった1951年11月、吉田氏は再軍備の時期について明確に答えています。

「只今日本が再軍備するときではない。」

出典:国会会議録検索システム「第12回国会 参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第20号」(1951年11月16日)

その一方、吉田政権期には1950年の警察予備隊から、1952年の保安隊、1954年の自衛隊へと国内の防衛組織が段階的に変化しました。講和後の安全保障をめぐる吉田政権は、米軍駐留と国内組織の整備を並行して進める時期でもありました。

「バカヤロー解散」と党内対立、1954年の退陣

独立回復後、政権運営では自由党内部の対立が目立つようになります。公職追放を解除された鳩山一郎らが政治活動へ戻り、党内では吉田氏との主導権争いが続きました。

1953年3月14日には内閣不信任決議案が可決され、吉田氏は衆議院を解散します。後に「バカヤロー解散」と呼ばれた解散です。総選挙後の国会で、本人は解散についてこう説明しました。

「これを解散によつて民意に問う。」

出典:国会会議録検索システム「第16回国会 衆議院昭和二十八年度一般会計暫定予算につき同意を求めるの件外六件特別委員会 第5号」(1953年5月26日)

1953年5月には第5次吉田内閣が発足しましたが、保守勢力の再編は止まりませんでした。1954年11月には鳩山一郎を中心とする日本民主党が結成され、12月10日、第5次吉田内閣は総辞職しました。

首相在任は5次の内閣を通算して2,616日。吉田政権のあとには第1次鳩山一郎内閣が発足しました。

退陣後も衆議院議員として活動を続け、1955年の総選挙で5回目の当選を果たしました。1958年と1960年には自由民主党から立候補して当選し、1960年の第29回総選挙が最後の選挙となります。

首相退任後の大磯――「大磯詣で」と呼ばれた邸宅

吉田氏は1945年ごろから大磯の邸宅を本宅としていました。1954年に首相を退くと生活の比重はさらに大磯へ移りますが、政財界人の訪問は絶えず、その往来は「大磯詣で」と呼ばれるようになりました。

邸宅は海外からの賓客を迎える場としても増改築されました。昭和30年代後半には建築家・吉田五十八の設計による新館が加わり、「金の間」「銀の間」などが設けられています。

建物だけでなく、庭園にも当時の暮らしや迎賓の場としての性格が残されています。

大磯町との関係も続き、1965年には町で最初の名誉町民となりました。金の間には富士山を望める大きな窓があり、資料館には晩年の吉田氏と富士山をめぐる逸話も伝わっています。

1967年10月20日、大磯の自宅にある銀の間で死去しました。89歳でした。同月31日には日本武道館で国葬が行われ、大磯では国道1号沿いに住民や中学生ら約5,000人が並び、葬列を見送りました。

選挙歴 吉田茂の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第23回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:該当なし
衆議院初当選
高知県 全県区 日本自由党 当選 98,176票 1位
第24回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:該当なし
高知県 全県区 民主自由党 当選 81,289票 1位
第25回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:該当なし
高知県 全県区 自由党 当選 87,169票 1位
第26回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:該当なし
高知県 全県区 自由党 当選 88,620票 1位
第27回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:該当なし
高知県 全県区 自由党 当選 52,962票 1位
第28回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:該当なし
高知県 全県区 自由民主党 当選 52,286票 4位
第29回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:該当なし
最後の総選挙出馬
高知県 全県区 自由民主党 当選 68,506票 2位

吉田茂氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

自衛と防衛力

独立と安全保障

中立と平和外交

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

映像で見る吉田茂の愛犬との暮らし

政治経歴とは別に、大磯町郷土資料館には吉田家の愛犬アルバムや庭園に残る犬の墓石など、家庭での暮らしを伝える資料があります。同館の公式動画では、その資料をもとに吉田氏と愛犬のエピソードが紹介されています。

政治人生の転機 吉田茂の政治人生の転機
01
1945年
外交官から戦後政治の表舞台へ
終戦後、東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣を務めた。
なぜ転機なのか 外交実務を担ってきた経歴から、閣僚として戦後政治へ移ったため。
02
1946年5月
鳩山一郎の公職追放と首相就任
鳩山一郎の公職追放後、日本自由党総裁を引き受け、第1次吉田内閣を組織した。
なぜ転機なのか 外交官出身の吉田が政権の最高責任者となったため。
03
1951~1952年
講和条約への署名と主権回復
日本側首席全権としてサンフランシスコ平和条約に署名し、1952年4月に条約が発効した。
なぜ転機なのか 占領下の首相から、独立回復後の日本を率いる首相へ立場が変わったため。
04
1954年12月
5次にわたる吉田内閣の終幕
第5次吉田内閣が総辞職し、鳩山一郎内閣へ政権が移った。
なぜ転機なのか 通算2,616日に及ぶ首相在任を終え、その後は大磯を拠点とする立場へ移ったため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料

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