福田赳夫の経歴・学歴と生い立ち|大蔵官僚から第67代首相、福田ドクトリンと日中平和友好条約まで

福田赳夫
ひと目でわかるプロフィール 福田赳夫
ふくだ たけお
出身地
群馬県群馬郡金古町大字足門(現・高崎市)
初当選
1952年(第25回衆議院議員総選挙)
最終学歴
東京帝国大学法学部法律学科卒業
主な前職
官僚・国家公務員
政界入り
官僚から
生年月日 1905年1月14日
血液型 O型
没年月日 1995年7月5日

福田赳夫は、大蔵官僚として戦前・戦後の財政実務を経験したのち、47歳で国政へ転じ、第67代内閣総理大臣まで務めた政治家です。

田中角栄との総裁争いで知られる一方、その歩みをたどると、群馬での少年時代、大蔵省主計局長からの転身、高度成長後の経済運営、東南アジア外交、そして退陣後の国際活動まで、長い政治人生が続いています。

福田赳夫氏を理解する3つのポイント
  1. 群馬の地域社会に根を持つ家庭で育ち、旧制高校・東京帝大を経て大蔵官僚となりました。
  2. 官僚退官後に国政へ転じ、経済閣僚や自民党幹部を重ねて首相に就きました。
  3. 国内では安定成長と「協調と連帯」を掲げ、外交では東南アジアや中国との関係構築に力を注ぎました。

福田赳夫の生い立ち|金古町の福田家に生まれた少年時代

福田赳夫は1905年1月14日、群馬郡金古町大字足門、現在の高崎市に生まれました。父は善治、母はツタ。8人きょうだいの二男で、福田家は地域の行政にも深く関わっていた家でした。

父・善治は金古町長を務め、兄の平四郎も後に町長となっています。幼い赳夫は小学校に入る前から囲碁を覚えるなど早熟だったと伝えられています。

1911年4月に金古尋常高等小学校へ入学しました。残る学業記録では、1年生から卒業まで、成績の「乙」は一度だけで、ほかは「甲」だったとされています。

授業で教師の説明が終わる前に答えを出してしまうこともあったという逸話が残り、子どものころから学業面で際立っていた様子がうかがえます。

福田赳夫の学歴|高崎中から第一高等学校、東京帝国大学へ

学歴一覧福田赳夫の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
尋常高等小学校金古尋常高等小学校―旧制度・比較不可戦前の学校制度
旧制中学群馬県立高崎中学校―旧制度・比較不可旧制中学校
旧制高校第一高等学校―旧制度・比較不可旧制高等学校
大学東京帝国大学法学部法律学科旧制度・現在の東京大学偏差値とは直接比較不可卒業

※福田赳夫の学歴は旧制中学・旧制高校・東京帝国大学時代の制度によるため、現在の偏差値へ換算していません。

旧制の群馬県立高崎中学校へ進み、1922年に卒業。その後は第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科へ進みました。

当時の第一高等学校から東京帝国大学へ進む経路は、中央官僚を多く送り出していた進学ルートでもありました。福田も大学卒業後、政治家ではなく官僚の道を選びます。

福田赳夫の経歴|大蔵省で銀行局長・主計局長へ

1929年4月、福田は大蔵省へ入りました。入省後の早い時期にはロンドン勤務を経験し、その後も財政・金融行政の現場を歩みます。

戦後には銀行局長、さらに主計局長を歴任しました。国家予算を扱う主計局のトップまで進んだ経験は、後に繰り返し大蔵大臣を務める福田の政治経歴でも大きな比重を占めます。

ところが1948年、主計局長時代に昭和電工事件で逮捕・起訴されました。福田は1950年11月に大蔵省を退官します。

昭和電工事件では逮捕・起訴されましたが、福田赳夫については1958年に無罪が確定しています。

約21年に及んだ官僚生活はここで終わりました。次に向かったのは、故郷・群馬を選挙区とする国政でした。

47歳で初出馬、無所属から国政へ

1952年10月の第25回衆議院議員総選挙で、福田は旧群馬3区から無所属で立候補しました。10人が争った定数4の選挙で46,531票を得て2位に入り、47歳で衆議院議員へ初当選します。

1953年も無所属で議席を守り、1955年の総選挙では日本民主党から3回目の当選。同年11月の保守合同で自由民主党が結成されると、その後は自民党政治家として歩みました。

1958年6月には自由民主党政務調査会長、1959年1月には幹事長に就任します。国政入りから6年ほどで、党の政策部門と組織運営の中枢を相次いで担いました。

そして1959年6月、岸内閣で農林大臣として初入閣します。農林相としては日ソ漁業交渉のためソ連を訪れるなど、国内農政だけでなく対外交渉にも携わりました。

蔵相・外相を重ね、佐藤政権の有力者へ

1965年6月、佐藤栄作内閣で大蔵大臣に就任しました。東京オリンピック後の景気後退への対応が課題となる時期で、元主計局長だった福田が今度は政治家として財政運営を担います。

1965年末の国会では、公債の導入と健全財政の関係を問われ、単に収支が均衡しているかどうかではなく、予算規模や支出内容を含めて判断すべきだという考えを示しました。

均衡と健全とは、私は全く違った観念かと思うのです。

出典:国会会議録「第51回国会 衆議院 大蔵委員会 第7号」(1965年12月27日)

1968年11月に再び大蔵大臣となり、1970年の第3次佐藤内閣でも留任しました。この時期には貿易や資本の自由化が進み、日本経済が国際市場との結び付きを強めていきます。

1971年7月には外務大臣へ移りました。昭和天皇・香淳皇后の訪欧では首席随員を務め、沖縄返還をめぐる外交や国際交流基金創設に向けた仕事にも関わっています。

佐藤栄作の後継を決める1972年7月の自民党総裁選では、田中角栄と争いました。決選投票の結果は田中282票、福田190票。首相への最初の大きな挑戦は田中に敗れる形となりました。

その後も田中内閣で行政管理庁長官、1973年11月から大蔵大臣を務め、石油危機と物価上昇への対応に当たります。1974年12月に発足した三木内閣では、副総理兼経済企画庁長官となりました。

人生年表 福田赳夫さんの歩み
1905年1月14日
群馬県群馬郡金古町大字足門に生まれる
父・善治、母・ツタの二男
1911年4月
金古尋常高等小学校に入学
1922年
群馬県立高崎中学校を卒業
1929年
東京帝国大学法学部法律学科を卒業
第一高等学校を経て進学
1929年4月
大蔵省に入省
1947年
大蔵省主計局長に就任
1948年
昭和電工事件で逮捕・起訴される
1958年に無罪が確定
1950年11月
大蔵省を退官
1952年10月
第25回衆議院議員総選挙で初当選
旧群馬3区、無所属
1958年6月
自由民主党政務調査会長に就任
1959年1月
自由民主党幹事長に就任
1959年6月
農林大臣に就任
初入閣
1965年6月
大蔵大臣に就任
1971年7月
外務大臣に就任
1972年7月5日
自由民主党総裁選で田中角栄に敗れる
田中282票、福田190票
1974年12月
副総理兼経済企画庁長官に就任
1976年12月23日
第8代自由民主党総裁に選出
1976年12月24日
第67代内閣総理大臣に就任
1977年8月18日
マニラで東南アジア政策の三原則を表明
後に「福田ドクトリン」と呼ばれる
1978年8月12日
日中平和友好条約が北京で署名される
同年10月23日発効
1978年11月26日
自由民主党総裁予備選で大平正芳に次ぐ2位となる
本選への進出を辞退
1978年12月7日
内閣総理大臣を退任
首相在職714日
1983年11月
インターアクション・カウンシルの第1回総会を開催
元首脳による国際提言活動を主導
1986年7月
第38回衆議院議員総選挙で14回目の当選
最後の総選挙出馬
1990年
政界を引退
同年10月28日、群馬県名誉県民
1995年7月5日
死去
90歳

福田赳夫の政策・政治姿勢|高度成長から「安定成長」へ

石油危機を経た1970年代半ば、日本経済は、それまでのような年率10%前後の高度成長を前提にできない局面へ入っていました。経済企画庁長官だった福田は、資源、物価、国際収支、公害、国土条件との均衡を重視します。

いままで十数年間続いてまいりました高度成長という考え方は再びとらない。

出典:国会会議録「第76回国会 衆議院 商工委員会 第2号」(1975年11月12日)

目指したのは、成長率そのものを最大化する路線ではなく、経済全体の条件と釣り合う「適正な成長」「安定成長」でした。

1976年、第67代内閣総理大臣に就任

1976年12月5日の総選挙では、自民党が衆議院で単独過半数を割り込み、三木武夫首相が退陣します。福田自身は旧群馬3区で10回目の当選を果たしていました。

12月23日、自民党は両院議員総会で福田を第8代総裁に選出。翌24日の首相指名を経て、71歳で第67代内閣総理大臣に就任しました。

衆議院の首相指名では福田が256票を獲得しました。当時の衆議院定数511に対し、過半数を1票上回る数字でした。

「協調と連帯」と開かれた党運営

福田内閣が掲げた言葉の一つが「協調と連帯」でした。与野党の勢力が接近した国会で、予算修正や国会運営をめぐる議論の中でも、この考えを繰り返し示しています。

協調と連帯、これは国会運営における要諦でなければならぬ

出典:国会会議録「第80回国会 衆議院 予算委員会 第12号」(1977年2月23日)

党運営でも、自民党をより広く党員が参加する組織へ変える改革を進めました。全国の党員・党友による総裁予備選挙を導入したのも福田総裁時代です。

この改革は1978年の総裁選で初めて本格的に用いられ、後に福田自身がその予備選で敗れることになります。

東南アジアに示した「福田ドクトリン」

外交で長く名前が残ったのが、1977年の東南アジア歴訪です。クアラルンプールで初の日・ASEAN首脳会議に臨んだ後、8月18日にフィリピン・マニラで演説しました。

そこで示された三原則が、後に「福田ドクトリン」と呼ばれます。

わが国は,平和に徹し軍事大国にはならないことを決意しており

出典:外務省「福田総理大臣マニラ・スピーチ」(1977年8月18日)

残る二つは、東南アジア諸国との間に「心と心のふれ合う」相互信頼関係を築くこと、そしてASEANと「対等な協力者」として協力することでした。

この三原則は一時的な訪問声明にとどまらず、その後の日・ASEAN関係を説明する際にも日本政府が繰り返し参照する外交原則となっています。

日中平和友好条約の締結

首相在任中には中国との関係でも大きな動きがありました。1972年の日中国交正常化後も残されていた平和友好条約の交渉が進み、1978年8月12日、北京で日中平和友好条約が署名されます。

条約は同年10月23日に発効しました。続いて中国の鄧小平副総理が来日し、10月25日には福田首相と会談しています。

同じ1978年5月には、新東京国際空港、現在の成田国際空港も開港しました。長く国内政治上の懸案となっていた空港が、福田内閣期に実際の運用へ入りました。

選挙歴 福田赳夫の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第25回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
初当選
旧群馬 3区 無所属 当選 46,531票 2位
第26回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
2回目の当選
旧群馬 3区 無所属 当選 52,665票 4位
第27回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
3回目の当選
旧群馬 3区 日本民主党 当選 61,090票 2位
第28回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
4回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 88,027票 1位
第29回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
5回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 92,099票 1位
第30回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
6回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 95,378票 1位
第31回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
7回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 100,573票 1位
第32回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
8回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 99,466票 2位
第33回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
9回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 178,281票 1位
第34回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
10回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 148,736票 1位
第35回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
11回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 122,542票 1位
第36回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
12回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 128,542票 1位
第37回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
13回目の当選
旧群馬 3区 自由民主党 当選 129,100票 1位
第38回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:制度なし
14回目の当選。最後の総選挙出馬
旧群馬 3区 自由民主党 当選 120,500票 1位

福田赳夫氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

財政・経済運営

原子力とエネルギー安全保障

公平な税制

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

ダッカ日航機ハイジャック事件と人命をめぐる判断

1977年9月、ダッカ日航機ハイジャック事件が発生しました。福田内閣は人質の安全を優先して犯人側の要求を受け入れる決断をし、福田の「人の命は地球より重い」という言葉が広く知られるようになります。

事件後の11月、国会でこの発言を問われた福田は、人命尊重だけを論じたのではなく、法治国家として法の秩序も維持しなければならないという立場を説明しました。

人の命は地球よりも重い

出典:国会会議録「第82回国会 衆議院 法務委員会 第8号」(1977年11月15日)

その答弁では「人の命」と「法の秩序」の双方を貫くことが政府の取るべき姿勢だと述べています。事件時の短い言葉と、後日の国会答弁を合わせると、福田自身が判断をどう整理していたかが分かります。

1978年総裁選、大平正芳に敗れて退陣

1978年、自民党総裁選は新たに導入された党員・党友参加の予備選挙を伴う方式で行われました。11月26日の結果は、大平正芳748点、福田638点、中曽根康弘93点、河本敏夫46点でした。

福田は予備選2位となり、本選への進出を辞退します。大平が第9代自民党総裁に選ばれ、福田内閣は12月7日に総辞職しました。

首相在職期間は714日。1972年には田中角栄に敗れ、1976年に首相へ到達した福田でしたが、今度は大平正芳との党内競争によって政権を去ることになりました。

退陣後は「OBサミット」で国際課題へ

首相退任後も衆議院議員を続け、自民党最高顧問などを務めました。一方、活動の舞台は国内政局だけではなく、元首脳同士による国際的な政策提言へ広がっていきます。

1983年には、各国の元首脳らで構成するインターアクション・カウンシル、通称「OBサミット」の活動を本格化させました。第1回総会は同年11月にウィーンで開かれ、福田は中心人物として参加しました。

そこで扱われたのは、平和や安全保障だけではありません。人口、開発、資源など、国境を越えて長期的な対応が必要な問題にも関わりました。

選挙では1986年7月の第38回衆議院議員総選挙で14回目の当選を果たしました。これが福田自身にとって最後の総選挙出馬です。

1990年の総選挙には立候補せず、約37年に及ぶ衆議院議員生活を終えて政界を引退しました。同年10月28日には群馬県名誉県民として顕彰されています。

1995年7月5日に死去しました。90歳でした。

政治人生の転機 福田赳夫の政治人生の転機
01
1950年
大蔵省を退官
主計局長まで務めた大蔵省を1950年11月に退官した。
なぜ転機なのか 官僚としての約21年間を終え、国政選挙へ進む前提となったため。
02
1952年10月
衆議院議員に初当選
第25回衆議院議員総選挙の旧群馬3区へ無所属で立候補し、初当選した。
なぜ転機なのか 官僚から選挙で選ばれる政治家へ立場が変わったため。
03
1976年12月
第67代内閣総理大臣に就任
自由民主党総裁に選出された翌日、第67代内閣総理大臣に就任した。
なぜ転機なのか 長年の閣僚・党幹部経験を経て政府の最高責任者となったため。
04
1978年11月~12月
総裁予備選敗北から首相退任へ
自民党総裁予備選で大平正芳に敗れ、本選進出を辞退。12月7日に首相を退任した。
なぜ転機なのか 政権を退き、その後は元首相として国際的な提言活動へ比重を移したため。

映像で見る福田赳夫

1976年の自民党総裁就任から首相指名、組閣までの本人映像が残っています。記者団を前にした話し方や、初閣議・認証式など当時の様子を確認できます。

関連書籍
福田赳夫さんの著書・関連書籍
回顧九十年
書籍
回顧九十年
著者:福田 赳夫 / 出版社:岩波書店 / 発売日:2014年12月10日頃
回顧九十年
書籍
回顧九十年
著者:福田赳夫 / 出版社:岩波書店 / 発売日:1995年03月
OBサミットの真実 福田赳夫とヘルムート・シュミットは何を願っていたのか。
書籍
OBサミットの真実 福田赳夫とヘルムート・シュミットは何を願っていたのか。
著者:渥美桂子 / 出版社:ダイヤモンド社 / 発売日:2023年08月31日

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参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
報道・インタビュー
その他の参考資料

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