大隈重信の経歴・学歴と生い立ち|佐賀藩士から二度の首相、早稲田大学創設まで

大隈重信
ひと目でわかるプロフィール 大隈重信
おおくま しげのぶ
出身地
肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀県佐賀市水ヶ江)
最終学歴
佐賀藩弘道館、蘭学寮で修学
主な前職
官僚・国家公務員、教員
政界入り
官僚から
生年月日 1838年3月11日
血液型 O型
没年月日 1922年1月10日

大隈重信は、幕末の佐賀藩から明治政府へ入り、財政・外交・議会政治に関わった政治家です。二度にわたり内閣総理大臣を務める一方、早稲田大学の前身である東京専門学校を創立しました。

その歩みは、藩校教育への反発から洋学へ向かった青年期、明治政府の中枢、1881年の下野、政党政治、私学創設、条約改正、二度の組閣へと続きます。政治と教育の二つの場を往復しながら生きた83年をたどります。

大隈重信を理解する3つのポイント
  1. 佐賀藩の洋学教育から明治政府へ入り、財政・通貨・外交など近代国家づくりの実務を担いました。
  2. 1881年の政変後は立憲改進党を結成し、東京専門学校を設立して政党政治と教育の双方に活動領域を広げました。
  3. 1898年と1914年の二度首相となり、晩年まで早稲田大学総長として教育にも関わりました。

大隈重信の生い立ち|佐賀城下で育ち、藩校の教育に疑問を抱く

大隈重信は1838年3月11日、肥前国佐賀城下に生まれました。生家があった会所小路は、現在の佐賀市水ヶ江にあたり、旧宅は国指定史跡として残されています。

佐賀藩士の家に生まれ、1844年に藩校弘道館の外生寮へ入りました。幕末の佐賀藩は藩主鍋島直正のもとで軍事・産業・教育の改革を進め、西洋の科学技術を積極的に取り入れていた地域です。

一方の弘道館では朱子学を中心とした教育が行われていました。大隈は成長するにつれてその教育内容に反発し、1855年、寮生間の激しい対立の末に退学処分となります。

翌1856年には蘭学寮に入り、西洋の物理・歴史・政治を学び始めました。オランダ憲法やアメリカ独立宣言などにも触れ、1861年には蘭学寮の教官となっています。

余は今に及んで一生の憾事と為すものあり。

出典:早稲田大学『早稲田大学百五十年史 第一巻』(公開日記載なし)

大隈重信の学歴|長崎で英学を学び、幕末政治の現場へ

学歴一覧大隈重信の学校歴
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区分学校名学部・専攻現在の偏差値・難易度備考
藩校佐賀藩弘道館漢学など旧制度・比較不可幕末の藩校
学問所蘭学寮など蘭学・英学旧制度・比較不可幕末の教育制度

※大隈重信の学歴は幕末の教育制度によるため、現代の偏差値へ換算していません。

1864年、大隈は藩当局に経済政策を建言した後、物産流通を扱う役人として長崎へ赴きました。翌1865年にはオランダ系アメリカ人宣教師グイド・フルベッキのもとで英語を学び、アメリカ憲法やキリスト教にも接しました。

1867年、佐賀藩は長崎に蕃学稽古所を設け、大隈も英語を教えました。この学校は後に致遠館と呼ばれます。洋学を学ぶ側から、教える側へも回っていた時期です。

幕末の政治状況が緊迫すると、大隈は教育だけに専念せず政治活動へ入りました。明治維新後の1868年には新政府に登用され、外国事務局判事として外交実務を担います。

長崎で身につけた英学と海外事情の知識を持って、新政府の外交現場へ入ったことが、官僚・政治家としての出発点になりました。

大隈重信の経歴|明治政府で財政・通貨・鉄道の制度づくりに関わる

大隈は1869年に会計官副知事、民部大輔、大蔵大輔を歴任し、1870年には参議となりました。1873年には大蔵省事務総裁、続いて大蔵卿となり、明治政府の財政運営を担う立場へ進みます。

全国共通の貨幣単位「円」

明治初期には、旧来の金銀貨や藩札、政府紙幣などが併存していました。1871年の新貨条例で「円・銭・厘」による十進法の貨幣制度が導入され、大隈はその制度づくりで主導的な役割を担いました。

ただし、「円」という名称を大隈自身がどのような理由で選んだのかについては複数の説があり、本人の記録から確定できません。貨幣制度への関与と、名称由来の伝承は分けて見る必要があります。

人生年表 大隈重信さんの歩み
1838年3月11日
肥前国佐賀城下に生まれる
佐賀藩士・大隈家に生まれる
1844年
佐賀藩校弘道館に入る
外生寮で学び始める
1855年
弘道館を退学
寮生間の対立をきっかけに退学処分となる
1856年
蘭学寮に入る
物理・歴史・政治など西洋の学問を学ぶ
1861年
蘭学寮の教官となる
洋学を教える立場になる
1864年
長崎へ赴任
佐賀藩の経済政策に関わる
1865年
フルベッキに英学を学ぶ
アメリカ憲法やキリスト教などに接する
1867年
蕃学稽古所で英語を教える
のちの致遠館につながる教育活動に参加
1868年
明治政府に出仕
外国事務局判事など外交実務を担当
1870年
参議となる
明治政府中枢で政策形成に参加
1873年
大蔵省事務総裁・大蔵卿となる
財政運営の中心を担う
1881年10月
明治十四年の政変で政府を去る
国会開設・議院内閣制をめぐる対立の中で免官
1882年3月
立憲改進党を結成
総裁に就任
1882年10月
東京専門学校を創立
早稲田大学の前身
1888年
外務大臣に就任
条約改正交渉を担当
1889年10月18日
爆弾襲撃で右脚を失う
条約改正反対派の来島恒喜による襲撃
1898年6月
第1次大隈内閣が成立
第8代内閣総理大臣に就任
1907年
政界引退を表明し早稲田大学初代総長に就任
大学経営・教育活動へ比重を移す
1914年4月
第2次大隈内閣が成立
76歳で第17代内閣総理大臣に就任
1915年
対華21か条要求を中国政府へ提示
第一次世界大戦期の対中外交を進める
1916年7月
侯爵・貴族院議員となる
公爵・侯爵枠の貴族院議員
1916年10月
第2次大隈内閣が総辞職
首相在職通算1040日
1920年
早稲田大学が大学令による大学となる
法律上の大学として認可
1922年1月10日
死去
83年の生涯を終える
1922年1月17日
国民葬が行われる
日比谷公園を中心に多数の市民・学生が参列

大隈重信の政策・政治姿勢|財政状況を公表する試み

1873年、大蔵省事務総裁となった大隈のもとで「歳入出見込会計表」が作成、公表されました。財務省はこれを日本における最初の予算公表と位置づけています。

政府の歳入と歳出を国民に示すという考え方は、近代的な財政運営の一部になっていきました。大隈はこのほか、鉄道建設や殖産興業にかかわる政策にも参加しています。

明治十四年の政変――政府中枢から在野へ

大隈の政治人生を大きく変えたのが、1881年の明治十四年の政変です。

大隈は同年3月、国会の早期開設、国民の支持を考慮した政府高官の任用、政党官と永久官の区別などを盛り込んだ意見書を提出しました。国立国会図書館は、この構想をイギリス流の議院内閣制を志向したものと説明しています。

北海道開拓使官有物払い下げ問題をめぐる政府内対立も重なり、同年10月、大隈は参議を免官されました。政府を離れた大隈は、翌1882年3月に立憲改進党を結成して総裁となります。

政府官僚から政党政治家へと活動の軸が変わったのが、この時期でした。

内閣は永久の生命あるものでない。民心を失えば去らねばならぬ。

出典:大隈重信「勢力の中心を議会に移すべし」青空文庫(公開日記載なし)

東京専門学校を創立――政治と切り離した私学を目指す

政府を去った大隈が着手したもう一つの事業が教育でした。1882年10月21日、現在の早稲田大学の前身である東京専門学校が開校します。

教育内容の検討には小野梓らが深く関わり、大隈は土地の取得や資金面から学校を支えました。開校当初は政治家・大隈の学校と見られることへの警戒もあり、大隈自身は学校役員に就かず、公式行事にも長く姿を見せませんでした。

我輩つくづく人材教養の必要を感じた。

出典:早稲田大学「大隈重信のことばと写真でめぐる早稲田大学(第1回)」(2022年1月10日)

1897年になって初めて学校の公式行事に出席し、東京専門学校を自分個人の政治的な学校にする意思はないことを語っています。学校の独立を保ちながら支援するという距離感が、創立初期には意識されていました。

政治人生の転機 大隈重信の政治人生の転機
01
1881年10月
明治十四年の政変で政府を去る
イギリス流の議院内閣制と早期の国会開設を主張した意見書をめぐる政府内対立の中で参議を免官された。
なぜ転機なのか 政府官僚としての政治活動から、政党政治と私学創設へ活動の場を広げる契機となった。
02
1889年10月18日
条約改正交渉中の爆弾襲撃
外務大臣として条約改正を進める中、来島恒喜の爆弾で重傷を負い右脚を失った。
なぜ転機なのか 進行していた条約改正交渉が中断し、その年の外相辞任へ至った。
03
1898年6月
初の首相就任
自由党と進歩党の合同で憲政党が成立し、大隈が第8代内閣総理大臣となった。
なぜ転機なのか 在野で政党政治を進めてきた大隈が、自ら内閣を率いる立場に就いた。
04
1914年4月
76歳で首相に復帰
1907年の政界引退表明後、再び組閣を命じられ、第17代首相に就任した。
なぜ転機なのか 教育活動へ比重を移していた晩年に国政へ復帰し、第一次世界大戦期の政権を担うことになった。

大隈重信氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

第一次世界大戦と対独参戦

対中外交

内閣の政治責任

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

外相としての条約改正と、右脚を失った爆弾事件

1888年、大隈は外務大臣として政府に復帰しました。当時の外交上の大きな課題は、幕末以来の不平等条約の改正です。

大隈は国別交渉を進め、アメリカ、ドイツ、ロシアとの間で改正条約の調印に成功しました。しかし、大審院への外国人判事任用など交渉内容が明らかになると、国内で強い反対論が起こります。

1889年10月18日、外務省を出た大隈に玄洋社社員の来島恒喜が爆弾を投げました。大隈は右脚切断を余儀なくされる重傷を負います。

条約改正交渉はいったん中止となり、大隈は同年12月に外相を辞任しました。その後も義足を使用しながら政治活動を続けます。

1898年、憲政党を結成して初めて首相に就任

1896年に第2次松方内閣の外務大臣となり、翌年には農商務大臣を兼ねました。1898年には大隈の進歩党と板垣退助の自由党が合同し、憲政党を結成します。

同年6月30日、大隈は第8代内閣総理大臣に就任しました。大隈が首相兼外相、板垣が内相となったため「隈板内閣」とも呼ばれ、一般に日本初の政党内閣と位置づけられています。

しかし、旧自由党系と旧進歩党系の対立は解消せず、憲政党は分裂。第1次大隈内閣は132日で総辞職しました。

その後、大隈は憲政本党の総理を務めましたが、1907年1月に辞任して政界からの引退を表明します。

早稲田大学初代総長として総合大学化を進める

1902年、東京専門学校は早稲田大学へ改称しました。1907年4月、大隈は初代総長に就任し、長く学校を外側から支えてきた立場から、大学を代表する立場へ移ります。

吾輩は常に満々たる勇気を持って居る。前途に大希望あり、大抱負がある。

出典:早稲田大学「戦前・戦後の最初の総長[第1回]」(2020年7月1日)

当時の早稲田は政治経済・法学・文学などが中心でした。大隈は創立25周年を機に理工系分野を含む総合大学化を構想し、1908年から第二期計画が進みました。

1913年の創立30周年記念祝典では「早稲田大学教旨」が示されます。学問の独立、学問の活用、模範国民の造就という考え方が大学の理念として明確にされました。

吾人の大なる理想は文明の調和者として東洋の文明と西洋高度の文明と並行せしめ、調和せしむるにある。

出典:早稲田大学「大隈重信のことばと写真でめぐる早稲田大学(第2回)」(2022年2月10日)

76歳で二度目の首相へ――第一次世界大戦期の政権

政界引退から7年後の1914年4月、大隈は再び組閣を命じられました。76歳で第17代内閣総理大臣に就任します。

同年夏に第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を背景にドイツへ宣戦布告しました。第2次大隈内閣は、欧州の大戦が東アジアの国際関係を変化させる中で政権を運営することになります。

対華21か条要求

1915年1月18日、日本政府は中国政府に対し、山東省のドイツ権益継承、南満州・東部内蒙古に関する権益期限の延長などを含む要求を提示しました。いわゆる対華21か条要求です。

要求には中国政府への日本人顧問採用などを含む第5号もありましたが、その大部分を削除した上で、日本側は5月7日に最後通牒を発しました。中国政府は5月9日に受諾し、関連条約・交換公文が締結されます。

この外交は、その後の日中関係を考える上で大きな論点となりました。要求の内容だけでなく、最後通牒という手法を含めて中国側に強い反発を残した出来事として扱われています。

1915年総選挙と政権運営

第2次大隈内閣は1914年12月に衆議院を解散し、1915年3月25日に第12回衆議院議員総選挙が行われました。大隈自身は候補者ではありませんでしたが、政権を率いる首相として選挙戦に深く関与しました。

同年夏には大浦事件を受けて内閣改造が行われ、大隈自身が一時外相を兼任しました。政権はその後も続き、1916年10月9日に総辞職しています。第二次内閣の在職日数は908日、首相としての通算在職日数は1040日でした。

政党政治について何を求めたのか

大隈の政治活動には、政府内部にいた時期と在野政党を率いた時期の両方があります。そのため個別政策は時期によって変化していますが、議会と政党を政治運営の中心に近づけようとする主張は繰り返し確認できます。

1881年の上奏文では早期の国会開設と政府高官の任用に国民の期待を反映させることを求め、後年の演説でも内閣が民心を失った場合には交代すべきだと論じました。

一方、大日本帝国憲法下の首相は現在の議院内閣制と同じ仕組みで選ばれたわけではありません。大隈が目指した政党政治と、当時の憲法制度の実際との間には隔たりがありました。

財政面では統一貨幣、予算公表、殖産興業など近代国家の経済制度整備に関与し、外交では不平等条約改正を重要課題としました。教育では、政府から距離を置いた私学と「学問の独立」を重視しました。

首相退任後も早稲田で学生に語り続ける

1916年7月、大隈は侯爵に叙され、貴族院議員となりました。公爵・侯爵の貴族院議員は、衆議院のような公選選挙によって議席を得る制度ではありませんでした。

首相を退いた後も、早稲田大学総長として大学行事に姿を見せ、学生への演説を続けました。1918年に大学令が公布され、1920年には早稲田大学が同令による大学として認可されます。

全体学問というものは一生涯の事業である。

出典:早稲田大学「大隈重信没後100年企画記事 第3回」(2022年3月10日)

この言葉は1921年4月、学生の前で行った最後の演説に含まれていました。

1922年死去――日比谷公園で国民葬

大隈重信は1922年1月10日に死去しました。満83歳でした。

1月17日には一般市民も参列する「国民葬」が日比谷公園で行われました。早稲田大学の記録では、参列者は20万とも30万ともされ、早稲田大学や関係校の学生・生徒約2万人も大隈邸から日比谷公園まで隊列を組みました。

政治家として二度首相となりながら、私学創設者としても長い活動を続けた生涯は、1922年に終わりました。

現在残る大隈重信の資料とゆかりの場所

2026年9月時点では、佐賀市水ヶ江に大隈重信記念館と国指定史跡の旧宅が残り、生家と関係資料を確認できます。

早稲田大学でも大学史資料センターなどが大隈関係資料を保存・公開しており、2026年1月10日には命日に合わせて墓前で展墓が行われました。

国立国会図書館には大隈重信関係文書のマイクロフィルム、肖像、歴史的音源などが収蔵・公開されています。政治家本人が残した演説を音声で確認できる資料もあります。

早稲田大学の沿革と大隈の建学理念を映像で確認したい場合は、大学公式の歴史動画も公開されています。

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参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報

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