竹入義勝の経歴・生い立ち|国鉄職員から公明党委員長、日中国交正常化の橋渡しまで

竹入義勝
ひと目でわかるプロフィール 竹入義勝
たけいり よしかつ
出身地
長野県上伊那郡(現在の辰野町)
初当選
1967年(第31回衆議院議員総選挙)
政界入り
市民活動から
生年月日 1926年1月10日
没年月日 2023年12月23日

竹入義勝氏は、国鉄職員、文京区議、東京都議を経て国政へ進み、1967年から約20年間にわたって公明党の委員長を務めた政治家です。

衆議院議員としては旧東京10区から連続8回当選しました。党首として国内政治に向き合う一方、1972年の日中国交正常化を前に中国の周恩来首相と直接会談したことでも知られています。

竹入義勝氏を理解する3つのポイント
  1. 長野県出身で国鉄職員を経験した後、1959年の文京区議選から政治の道へ入りました。
  2. 1967年に衆議院へ初当選すると同年、公明党中央執行委員長に就任し、1986年まで党を率いました。
  3. 1972年には周恩来首相と会談し、日中国交正常化へ向かう過程で日本政府と中国側をつなぐ役割を担いました。

竹入義勝の生い立ち|長野県上伊那郡で生まれた少年時代

竹入義勝氏は1926年1月10日、長野県上伊那郡に生まれました。現在の辰野町にあたる地域です。公開資料では幼少期の細かな家庭エピソードは多くありませんが、青年期には国鉄職員として働く道へ進みます。

竹入義勝の学歴|若い時期の経歴資料に残る記載差

若い時期については後年の経歴資料の記載に食い違いも残っていますが、戦後に国鉄職員として働いたことは複数の資料で確認されています。

竹入氏は戦後、創価学会の活動にも関わるようになりました。1950年代後半になると、その活動は地方政治への進出につながっていきます。

竹入義勝の経歴|文京区議から東京都議へ

1959年4月、竹入氏は文京区議会議員選挙に出馬し、初当選しました。33歳で地方議員としての政治生活を始めたことになります。

1961年には、公明党の前身にあたる公明政治連盟の結成に参加しました。

さらに1963年4月には東京都議会議員選挙の北区選挙区から立候補し、都議に当選します。区議から都議へと活動の範囲を広げ、翌1964年に公明党が結成されると党の要職を担いました。

1967年、衆議院初当選と同時に公明党委員長へ

公明党が初めて本格的に衆議院選挙へ進出した1967年1月の第31回衆議院議員総選挙で、竹入氏は旧東京10区から立候補しました。

110,905票を獲得してトップ当選。初当選直後の1967年2月、41歳で公明党中央執行委員長に就任します。

その後は1969年、1972年、1976年、1979年、1980年、1983年、1986年の総選挙でも当選し、衆議院議員を連続8期務めました。

委員長在任中、公明党は国会で議席を増やす一方、政治路線の調整を重ねました。竹入氏が党首を務めた期間は約20年に及びます。

公明党を率いて模索した「中道」の政治

1960年代末から1970年代にかけて、公明党は自民党と社会党を中心とする戦後政治の中で、「中道」を掲げながら独自の立場を模索していました。

竹入氏の委員長時代には、政権交代を目指す野党協力、政治倫理、社会保障、外交・安全保障などが主要なテーマとなりました。

党の安全保障政策も固定されたものではありませんでした。1970年代末から1980年代初頭には、自衛隊や日米安全保障条約に対する従来の立場を修正し、現実の安全保障環境を踏まえた政策へと変化していきます。

「平和な国際環境を構築することを内閣の方針として内外に表明すべき」

出典:第96回国会 衆議院本会議(1982年8月18日)

1982年の衆議院本会議では、防衛費の拡大よりも政府開発援助、技術協力、市場開放などの平和的手段を重視する考えを示しています。

中国との接触を重ねた1971年

竹入氏の政治経歴の中でも、長く語られてきたのが中国との外交です。

1971年6月、竹入氏を団長とする公明党第一次訪中団が中国を訪れました。代表団は中国側との協議を重ね、7月2日には中国日本友好協会との共同声明を発表しています。

共同声明には、中華人民共和国との国交正常化を進めるための原則が盛り込まれました。日本政府と中国政府の正式交渉が始まる前に、野党側から中国政府との接触を積み上げていた時期です。

1972年、周恩来首相と3日間にわたり会談

田中角栄内閣が発足した1972年7月、竹入氏は再び北京へ向かいました。

7月27日から29日にかけて周恩来首相と連日会談し、日本と中国が国交を正常化する際の条件や共同声明の骨格について意見を交わしました。

「責任を以て正確に伝えます」

出典:第3回竹入義勝・周恩来会談記録(1972年7月29日)

会談の記録は後に「竹入メモ」と呼ばれるようになります。外務省外交史料館も、1972年の日中国交正常化交渉に関する史料として竹入・周恩来会談録を案内しています。

竹入氏は帰国後、田中首相や大平正芳外相に中国側の考えを伝えました。中国側が日本への戦争賠償請求を放棄する考えなどを示したことも、日本政府側へ伝えられました。

田中首相は同年9月に中国を訪問し、9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府は共同声明を発表。両国間の国交が正常化しました。

国交正常化は政府間交渉によって最終的に合意されたものであり、竹入氏だけの成果として扱うものではありません。一方で、正式交渉前に中国側の条件や意向を日本政府へ伝えた政治的な橋渡し役の一人だったことは、公開された会談録や外交史料から確認できます。

竹入義勝の経歴|党外交と国会論戦

日中国交正常化後も、公明党は中国との交流を続けました。竹入氏自身も国会では外交、安全保障、政治倫理などを繰り返し取り上げています。

ベトナム戦争が続いていた1968年には、米国による北爆をめぐって衆議院本会議で緊急質問に立ちました。

「平和を探求する意図がいずれにあるのか理解に苦しんだ」

出典:第58回国会 衆議院本会議(1968年4月4日)

1970年代後半から1980年代には、国内政治でも自民党政権への対抗と野党協力を模索しました。

「政治の浄化、政治倫理の確立を要求」

出典:第96回国会 衆議院本会議(1982年8月18日)

約20年間の委員長時代を終える

1986年7月の第38回衆議院議員総選挙で、竹入氏は149,594票を得て8回目の当選を果たしました。

同年11月には委員長辞任を表明し、12月の党大会で矢野絢也氏へ交代しました。竹入氏は最高顧問となり、1967年以来続いた約20年間の委員長時代が終わりました。

1990年の衆議院選挙には立候補せず、衆議院議員としての23年間の活動にも区切りをつけました。

政界引退後に表面化した公明党との対立

政界引退後、竹入氏と公明党・創価学会との関係は大きく変わりました。

1998年、朝日新聞に竹入氏の回顧録が連載され、公明党と創価学会との関係や自身の委員長時代について竹入氏側の認識が示されました。

これに対して公明党側は強く反論し、経歴や回顧録の記述についても批判を展開しました。その後、竹入氏は最高顧問を解任され、公明党から除名されています。

この問題には竹入氏側の回顧と公明党側の反論が存在するため、どちらか一方の主張を確定事実として扱うのではなく、両者の対立として見る必要があります。

人生年表 竹入義勝さんの歩み
1926年1月10日
長野県上伊那郡で生まれる
戦後
国鉄職員として勤務
1959年4月
文京区議会議員に初当選
地方政治へ進む
1961年
公明政治連盟の結成に参加
1963年4月
東京都議会議員に初当選
北区選挙区
1964年11月
公明党結成後、党幹部となる
1967年1月
第31回衆議院議員総選挙で初当選
旧東京10区
1967年2月
公明党中央執行委員長に就任
1971年6月
公明党第一次訪中団を率いて中国を訪問
日中国交正常化をめぐり中国側と協議
1972年7月
北京で周恩来首相と3日間にわたり会談
後に「竹入メモ」と呼ばれる会談記録を日本政府側へ伝達
1972年9月
日本と中国が国交を正常化
1986年7月
第38回衆議院議員総選挙で8回目の当選
1986年12月
約20年間務めた公明党委員長を退任
最高顧問に就任
1990年
衆議院議員を退き政界を引退
1998年
朝日新聞の回顧録掲載後、公明党との対立が表面化
後に党から除名
2023年12月23日
肺炎のため福岡市内の病院で死去
97歳

竹入義勝氏が重視した政策・政治姿勢

日中国交正常化と対話外交

竹入氏の外交活動で最も資料が多く残されているのが中国との関係です。1971年、1972年の訪中を通じて、中国政府との直接対話を重ねました。

軍事力だけに依存しない安全保障

国会では、防衛力の拡張だけでなく、経済協力、政府開発援助、技術協力などを通じて国際環境を安定させる考えを主張しています。

政治倫理

1980年代の国会論戦では政治倫理の確立を繰り返し要求しました。長期政権下の政治資金や政治の信頼をめぐる問題は、当時の野党共通の主要論点の一つでした。

社会保障と生活政策

公明党は竹入委員長時代に福祉・生活政策を主要分野とし、国会では社会福祉施設職員の待遇改善などに関する請願にも関わっています。

野党連携と連合政権構想

自民党の長期政権に対し、竹入氏は他の野党との協力を模索しました。1970年代から1980年代にかけ、公明党は社会党、民社党などとの連携や連合政権構想を時期ごとに検討しています。

選挙歴 竹入義勝の選挙歴
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年月日選挙選挙区・地域所属結果得票・順位
第31回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
衆議院初当選。
東京 10区 公明党 当選 110,905票 1位
第32回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
2回目の当選。
東京 10区 公明党 当選 126,455票 1位
第33回衆議院議員総選挙
定数:4 比例復活:なし
3回目の当選。
東京 10区 公明党 当選 132,230票 1位
第34回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
4回目の当選。
東京 10区 公明党 当選 140,807票 1位
第35回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
5回目の当選。
東京 10区 公明党 当選 125,088票 1位
第36回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
6回目の当選。
東京 10区 公明党 当選 134,971票 2位
第37回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
7回目の当選。
東京 10区 公明党 当選 137,075票 1位
第38回衆議院議員総選挙
定数:5 比例復活:なし
8回目、最後の衆議院選挙。
東京 10区 公明党 当選 149,594票 1位

竹入義勝氏の国会発言をテーマ別に見る

一次情報を深掘り

記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。

政治倫理

軍事力だけに依存しない安全保障

ベトナム和平と対話外交

※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。

2023年、97歳で死去

竹入氏は2023年12月23日、肺炎のため福岡市内の病院で亡くなりました。97歳でした。

1959年の文京区議初当選から数えると、地方政治、国政、党運営に長く携わった生涯でした。中でも1972年に残された周恩来首相との会談記録は、日中国交正常化に至る過程を検証する一次資料として現在も公開されています。

政治人生の転機 竹入義勝の政治人生の転機
01
1959年
文京区議選で初当選
国鉄職員などを経て、文京区議会議員選挙に出馬し初当選しました。
なぜ転機なのか 地方政治家としての経歴が始まったため。
02
1967年
衆議院初当選と公明党委員長就任
1月の衆院選で初当選し、翌2月に公明党の中央執行委員長へ就任しました。
なぜ転機なのか 国政進出と同時に党の最高指導部を担う立場になったため。
03
1972年7月
周恩来首相との会談
北京で周恩来首相と連日会談し、中国側の考えを記した会談記録を日本政府側へ伝えました。
なぜ転機なのか 日中国交正常化をめぐる政府間交渉に先立つ政治的な橋渡しの一つとなったため。
04
1986年~1990年
委員長退任から政界引退へ
1986年12月に約20年間務めた公明党委員長を退き、1990年には衆議院議員も退任しました。
なぜ転機なのか 公明党の現役指導者・国会議員としての活動を終えたため。
参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
報道・インタビュー
その他の参考資料

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