竹入義勝氏は、国鉄職員、文京区議、東京都議を経て国政へ進み、1967年から約20年間にわたって公明党の委員長を務めた政治家です。
衆議院議員としては旧東京10区から連続8回当選しました。党首として国内政治に向き合う一方、1972年の日中国交正常化を前に中国の周恩来首相と直接会談したことでも知られています。
- 長野県出身で国鉄職員を経験した後、1959年の文京区議選から政治の道へ入りました。
- 1967年に衆議院へ初当選すると同年、公明党中央執行委員長に就任し、1986年まで党を率いました。
- 1972年には周恩来首相と会談し、日中国交正常化へ向かう過程で日本政府と中国側をつなぐ役割を担いました。
竹入義勝の生い立ち|長野県上伊那郡で生まれた少年時代
竹入義勝氏は1926年1月10日、長野県上伊那郡に生まれました。現在の辰野町にあたる地域です。公開資料では幼少期の細かな家庭エピソードは多くありませんが、青年期には国鉄職員として働く道へ進みます。
竹入義勝の学歴|若い時期の経歴資料に残る記載差
若い時期については後年の経歴資料の記載に食い違いも残っていますが、戦後に国鉄職員として働いたことは複数の資料で確認されています。
竹入氏は戦後、創価学会の活動にも関わるようになりました。1950年代後半になると、その活動は地方政治への進出につながっていきます。
竹入義勝の経歴|文京区議から東京都議へ
1959年4月、竹入氏は文京区議会議員選挙に出馬し、初当選しました。33歳で地方議員としての政治生活を始めたことになります。
1961年には、公明党の前身にあたる公明政治連盟の結成に参加しました。
さらに1963年4月には東京都議会議員選挙の北区選挙区から立候補し、都議に当選します。区議から都議へと活動の範囲を広げ、翌1964年に公明党が結成されると党の要職を担いました。
1967年、衆議院初当選と同時に公明党委員長へ
公明党が初めて本格的に衆議院選挙へ進出した1967年1月の第31回衆議院議員総選挙で、竹入氏は旧東京10区から立候補しました。
110,905票を獲得してトップ当選。初当選直後の1967年2月、41歳で公明党中央執行委員長に就任します。
その後は1969年、1972年、1976年、1979年、1980年、1983年、1986年の総選挙でも当選し、衆議院議員を連続8期務めました。
委員長在任中、公明党は国会で議席を増やす一方、政治路線の調整を重ねました。竹入氏が党首を務めた期間は約20年に及びます。
公明党を率いて模索した「中道」の政治
1960年代末から1970年代にかけて、公明党は自民党と社会党を中心とする戦後政治の中で、「中道」を掲げながら独自の立場を模索していました。
竹入氏の委員長時代には、政権交代を目指す野党協力、政治倫理、社会保障、外交・安全保障などが主要なテーマとなりました。
党の安全保障政策も固定されたものではありませんでした。1970年代末から1980年代初頭には、自衛隊や日米安全保障条約に対する従来の立場を修正し、現実の安全保障環境を踏まえた政策へと変化していきます。
「平和な国際環境を構築することを内閣の方針として内外に表明すべき」
出典:第96回国会 衆議院本会議(1982年8月18日)
1982年の衆議院本会議では、防衛費の拡大よりも政府開発援助、技術協力、市場開放などの平和的手段を重視する考えを示しています。
中国との接触を重ねた1971年
竹入氏の政治経歴の中でも、長く語られてきたのが中国との外交です。
1971年6月、竹入氏を団長とする公明党第一次訪中団が中国を訪れました。代表団は中国側との協議を重ね、7月2日には中国日本友好協会との共同声明を発表しています。
共同声明には、中華人民共和国との国交正常化を進めるための原則が盛り込まれました。日本政府と中国政府の正式交渉が始まる前に、野党側から中国政府との接触を積み上げていた時期です。
1972年、周恩来首相と3日間にわたり会談
田中角栄内閣が発足した1972年7月、竹入氏は再び北京へ向かいました。
7月27日から29日にかけて周恩来首相と連日会談し、日本と中国が国交を正常化する際の条件や共同声明の骨格について意見を交わしました。
「責任を以て正確に伝えます」
出典:第3回竹入義勝・周恩来会談記録(1972年7月29日)
会談の記録は後に「竹入メモ」と呼ばれるようになります。外務省外交史料館も、1972年の日中国交正常化交渉に関する史料として竹入・周恩来会談録を案内しています。
竹入氏は帰国後、田中首相や大平正芳外相に中国側の考えを伝えました。中国側が日本への戦争賠償請求を放棄する考えなどを示したことも、日本政府側へ伝えられました。
田中首相は同年9月に中国を訪問し、9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府は共同声明を発表。両国間の国交が正常化しました。
国交正常化は政府間交渉によって最終的に合意されたものであり、竹入氏だけの成果として扱うものではありません。一方で、正式交渉前に中国側の条件や意向を日本政府へ伝えた政治的な橋渡し役の一人だったことは、公開された会談録や外交史料から確認できます。
竹入義勝の経歴|党外交と国会論戦
日中国交正常化後も、公明党は中国との交流を続けました。竹入氏自身も国会では外交、安全保障、政治倫理などを繰り返し取り上げています。
ベトナム戦争が続いていた1968年には、米国による北爆をめぐって衆議院本会議で緊急質問に立ちました。
「平和を探求する意図がいずれにあるのか理解に苦しんだ」
出典:第58回国会 衆議院本会議(1968年4月4日)
1970年代後半から1980年代には、国内政治でも自民党政権への対抗と野党協力を模索しました。
「政治の浄化、政治倫理の確立を要求」
出典:第96回国会 衆議院本会議(1982年8月18日)
約20年間の委員長時代を終える
1986年7月の第38回衆議院議員総選挙で、竹入氏は149,594票を得て8回目の当選を果たしました。
同年11月には委員長辞任を表明し、12月の党大会で矢野絢也氏へ交代しました。竹入氏は最高顧問となり、1967年以来続いた約20年間の委員長時代が終わりました。
1990年の衆議院選挙には立候補せず、衆議院議員としての23年間の活動にも区切りをつけました。
政界引退後に表面化した公明党との対立
政界引退後、竹入氏と公明党・創価学会との関係は大きく変わりました。
1998年、朝日新聞に竹入氏の回顧録が連載され、公明党と創価学会との関係や自身の委員長時代について竹入氏側の認識が示されました。
これに対して公明党側は強く反論し、経歴や回顧録の記述についても批判を展開しました。その後、竹入氏は最高顧問を解任され、公明党から除名されています。
この問題には竹入氏側の回顧と公明党側の反論が存在するため、どちらか一方の主張を確定事実として扱うのではなく、両者の対立として見る必要があります。
竹入義勝氏が重視した政策・政治姿勢
日中国交正常化と対話外交
竹入氏の外交活動で最も資料が多く残されているのが中国との関係です。1971年、1972年の訪中を通じて、中国政府との直接対話を重ねました。
軍事力だけに依存しない安全保障
国会では、防衛力の拡張だけでなく、経済協力、政府開発援助、技術協力などを通じて国際環境を安定させる考えを主張しています。
政治倫理
1980年代の国会論戦では政治倫理の確立を繰り返し要求しました。長期政権下の政治資金や政治の信頼をめぐる問題は、当時の野党共通の主要論点の一つでした。
社会保障と生活政策
公明党は竹入委員長時代に福祉・生活政策を主要分野とし、国会では社会福祉施設職員の待遇改善などに関する請願にも関わっています。
野党連携と連合政権構想
自民党の長期政権に対し、竹入氏は他の野党との協力を模索しました。1970年代から1980年代にかけ、公明党は社会党、民社党などとの連携や連合政権構想を時期ごとに検討しています。
| 年月日 | 選挙 | 選挙区・地域 | 所属 | 結果 | 得票・順位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1967年 1月29日 | 第31回衆議院議員総選挙 衆議院初当選。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 110,905票 1位 |
| 1969年 12月27日 | 第32回衆議院議員総選挙 2回目の当選。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 126,455票 1位 |
| 1972年 12月10日 | 第33回衆議院議員総選挙 3回目の当選。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 132,230票 1位 |
| 1976年 12月5日 | 第34回衆議院議員総選挙 4回目の当選。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 140,807票 1位 |
| 1979年 10月7日 | 第35回衆議院議員総選挙 5回目の当選。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 125,088票 1位 |
| 1980年 6月22日 | 第36回衆議院議員総選挙 6回目の当選。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 134,971票 2位 |
| 1983年 12月18日 | 第37回衆議院議員総選挙 7回目の当選。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 137,075票 1位 |
| 1986年 7月6日 | 第38回衆議院議員総選挙 8回目、最後の衆議院選挙。 | 東京 10区 | 公明党 | 当選 | 149,594票 1位 |
竹入義勝氏の国会発言をテーマ別に見る
記事本文で扱ったテーマを、本人の国会発言まで深掘りできます。まずは代表的な発言を表示し、関連発言があるテーマだけ追加で確認できます。
政治倫理
「政治の浄化、政治倫理の確立を要求」
鈴木内閣不信任決議案の趣旨説明で、政治倫理の確立を政府に求めた。
軍事力だけに依存しない安全保障
「平和な国際環境を構築すること」
防衛費の拡大より、政府開発援助、技術協力、市場開放など平和的手段による国際貢献を重視する考えを示した。
ベトナム和平と対話外交
「平和を探求する意図がいずれにあるのか理解に苦しんだ」
米国の北爆部分停止後も攻撃が続いた状況を批判し、全面停止と和平交渉への移行を求めた。
※ 内容の要点は公式一次情報をもとに整理しています。正確な文脈・全文は各リンク先の公式資料から確認できます。
2023年、97歳で死去
竹入氏は2023年12月23日、肺炎のため福岡市内の病院で亡くなりました。97歳でした。
1959年の文京区議初当選から数えると、地方政治、国政、党運営に長く携わった生涯でした。中でも1972年に残された周恩来首相との会談記録は、日中国交正常化に至る過程を検証する一次資料として現在も公開されています。
- 竹入義勝・周恩来会談録を含む関連外交史料の所在を確認。
- 1972年9月29日の日中国交正常化と共同声明の内容を確認。
- 政治倫理、安全保障、ODA・経済協力等に関する竹入義勝の発言を確認。
- 1967年の衆議院初当選時の得票数、順位、定数を確認。
- 死亡年月日、死因、死亡場所、衆議院8期、委員長歴、日中国交正常化への関与を確認。
- 2023年12月23日の死去、97歳、肺炎、福岡市内の病院を確認。
- 1972年7月27日の竹入・周恩来会談内容を確認。
- 1972年7月28日の竹入・周恩来会談内容を確認。
- 1972年7月29日の竹入・周恩来会談内容を確認。
- 1986年の竹入委員長辞任、矢野絢也への交代、最高顧問就任を確認。
この記事の更新履歴
- 2026年10月2日 学歴後の最初の職歴・政界入りを経歴H2へ再配置し、後続の経歴項目を人物固有H3へ整理
- 2026年10月2日 経歴の続きと重複政策H2をH3へ整理し、高橋光男・岸本周平記事と同じ見出し階層へ統一
- 2026年10月2日 本文内の手動管理ショートコードと監査用の汎用H3を撤去し、WordPress側の自動表示と内容に即した見出し構造へ整理
- 2026年10月2日 学歴H2を本文内容に沿って補強し、「生い立ち・学歴・経歴」の3本柱を完成
- 2026年10月2日 主要見出しを「生い立ち・学歴・経歴」の3本柱へ整理し、既存本文を削除せず検索意図と読みやすさを統一
- 2026年10月2日 本文の重要な年月・当選・就任・退任などを赤文字で強調し、重要箇所の視認性を改善
- 2026年9月26日 記事を新規作成。2023年12月23日の死去を含む現況情報、衆議院8期の選挙歴、公明党委員長歴、日中国交正常化関連史料を確認
- 2026年9月26日 本人の公式一次情報をテーマ別に確認できる一次情報深掘りセクションを追加・更新。




















