木原誠二の経歴・学歴と生い立ち|財務官僚から東京20区、落選と復帰、官房副長官まで

ひと目でわかるプロフィール 木原誠二
きはら せいじ
出身地
東京都新宿区
初当選
2005年(第44回衆議院議員総選挙)
最終学歴
ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)修士課程修了
主な前職
会社員、大学教員・研究者、官僚・国家公務員
政界入り
官僚から、政党公募から
生年月日 1970年6月8日

木原誠二氏は、東京都第20区を政治基盤とする自由民主党の衆議院議員です。外務副大臣、内閣官房副長官、自民党選挙対策委員長などを歴任してきました。

政治家になる前は大蔵省・財務省の官僚でした。幼少期には米国とオランダで暮らし、大学卒業後は日本と英国の財政・金融行政を経験。2005年に国政へ進みますが、その後には落選と約3年4カ月の浪人生活も経験しています。

木原誠二氏を理解する3つのポイント
  1. 幼少期を米国・オランダでも過ごし、武蔵中高、東京大学法学部、英国LSEで学びました。
  2. 大蔵省・英国大蔵省で政策実務を経験した後、自民党公募を経て2005年に衆議院議員となりました。
  3. 2009年の落選と民間企業勤務を経て国政復帰し、外務副大臣、官房副長官、党選挙対策委員長などを務めています。

東京に生まれ、シカゴとアムステルダムでも暮らした幼少期

木原誠二氏は1970年6月8日、東京都新宿区に生まれました。生後9カ月ほどで家族と米国シカゴへ移り、5歳になるまで現地で暮らしています。

1976年に日本へ戻りましたが、1979年5月には今度はオランダのアムステルダムへ。同年12月に再び帰国し、高田馬場にある戸塚第二小学校へ通いました。

小学生時代はドッジボールが得意で、5年生になると少年野球チームへ入団します。本人のプロフィールには絵が苦手だったという少し意外なエピソードも残されており、スポーツの方に夢中になる少年でした。

武蔵中高で6年間テニス、東京大学でもラケットを握る

1983年4月、武蔵中学校へ入学しました。中学・高校の6年間は硬式テニス部に所属。ピアノも趣味として楽しんでいました。

1989年には東京大学文科一類へ進学し、大学でも再びテニスに打ち込みます。1991年秋には全国選抜テニス大会で3位に入ったと本人は紹介しています。

1993年3月に東京大学法学部を卒業。卒業後に選んだのは民間企業ではなく、大蔵省でした。

「少しでも人の役に立つ仕事を」

出典:木原誠二オフィシャルサイト「プロフィール」(公開日記載なし)

大蔵省で金融危機や財政改革の実務を経験

1993年4月、大蔵省に入省します。最初に配属された証券局証券業務課では、金融・証券市場が大きく揺れていた時期に証券会社をめぐる政策対応などに携わりました。

1995年7月からは英国へ留学し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で学びます。帰国後は主計局法規課へ移り、財政構造改革法の制定、改正、凍結を経験しました。

財務官僚としての経歴の中でも大きかったのが、1999年から2001年までの英国大蔵省への出向です。日本人職員として初めて英国大蔵省へ入り、金融犯罪対策やアジア通貨危機の分析などを担当しました。

本人は、この英国勤務中にマーガレット・サッチャー元首相と出会ったことを政治を志す契機として挙げています。2002年には、この経験をもとに『英国大蔵省から見た日本』を出版しました。

人生年表 木原誠二さんの歩み
1970年6月8日
東京都新宿区に生まれる
1971年頃
家族と米国シカゴへ移る
生後9カ月ごろから5歳まで暮らす
1976年6月
日本へ帰国
1979年5月
オランダ・アムステルダムへ移る
1979年12月
日本へ帰国
高田馬場の戸塚第二小学校へ通う
1983年4月
武蔵中学校に入学
中高6年間、硬式テニス部に所属
1989年4月
東京大学文科一類に入学
1993年3月
東京大学法学部を卒業
1993年4月
大蔵省に入省
証券局証券業務課などで勤務
1995年7月
英国LSEへ留学
1997年6月まで学ぶ
1999年7月
英国大蔵省へ出向
日本人として初めて出向し金融犯罪対策やアジア通貨危機分析などを担当
2001年7月
財務省大臣官房課長補佐に就任
2003年7月
財務省国際局課長補佐に就任
イラク復興支援、アジア金融協力、北朝鮮経済制裁などに携わる
2005年9月11日
第44回衆議院議員総選挙で初当選
自民党公募を経て東京20区から出馬
2009年8月30日
第45回衆議院議員総選挙で落選
約3年4カ月にわたり国政の議席を離れる
2009年~2012年
民間企業や政策研究の現場で働く
政策研究大学院大学研究員、縄文アソシエイツ・コンサルタントを務めながら地元活動を継続
2012年12月16日
第46回衆議院議員総選挙で国政復帰
東京20区で2回目の当選
2013年9月
外務大臣政務官に就任
2015年10月
外務副大臣に就任
2016年7月
ダッカ襲撃テロ事件の現地対策本部長を務める
2017年8月
自由民主党政務調査会副会長兼事務局長に就任
経済成長戦略や全世代型社会保障などの政策調整を担当
2020年10月
衆議院内閣委員長に就任
2021年10月
内閣官房副長官・内閣総理大臣補佐官に就任
2023年9月
自由民主党幹事長代理・政調会長特別補佐に就任
2024年11月
自由民主党選挙対策委員長に就任
2025年
自由民主党日本成長戦略本部幹事長に就任
2026年2月8日
第51回衆議院議員総選挙で7選
東京20区で当選

国際局でイラク復興や北朝鮮制裁を担当し、政治の世界へ

英国から戻ると財務省大臣官房で課長補佐を務め、2003年からは国際局へ。イラク復興支援や債務問題、アジア金融協力、中国経済、北朝鮮への経済制裁など、国際的な政策課題に携わりました。

その後、自由民主党が東京都第20区で行った候補者公募に応募します。公募を勝ち抜き、2005年の「郵政選挙」で初めて衆議院選挙へ挑戦しました。

東京20区は東村山市、東久留米市、東大和市、清瀬市、武蔵村山市からなる地域です。それまでこの地域を政治基盤としていたわけではありませんでしたが、以後20年以上にわたって北多摩を活動の中心とすることになります。

2005年9月11日の第44回衆院選では112,634票を獲得。35歳で初当選しました。

2009年に落選 会社員として営業の現場へ戻る

初当選から4年後、政治家として最初の大きな試練を迎えます。2009年8月の第45回衆院選で95,718票を得ましたが、民主党候補に敗れて議席を失いました。

ここから約3年4カ月、国会議員ではない生活が続きます。政策研究大学院大学の研究員を務める一方、縄文アソシエイツではコンサルタントとして働きました。本人のXプロフィールでは、この時期を「虎ノ門の会社でサラリーマン生活」と表現しています。

政治活動だけで生活するのではなく、民間企業で営業の仕事をしながら地元を回る生活でした。地元の人から野菜を分けてもらい、夕食へ誘われ、仕事まで紹介してもらったこともあったと振り返っています。

「恩は決して忘れません。」

出典:木原誠二オフィシャルサイト「木原誠二、これまでの実績」(公開日記載なし)

東村山市には、同市出身の志村けんさんの銅像があります。2021年、銅像完成の際にも本人公式Xで地元への思いを発信しました。

選挙歴 木原誠二の選挙歴
横にスクロールできます
年月日 選挙 選挙区・地域 所属 結果 得票・順位
第44回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
初出馬・初当選。自民党公募を経て立候補
東京都 第20区 自由民主党 当選 112,634票 1位
第45回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
議席を失う
東京都 第20区 自由民主党 落選 95,718票 2位
第46回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
約3年4カ月ぶりに国政復帰
東京都 第20区 自由民主党 当選 98,070票 1位
第47回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
3選
東京都 第20区 自由民主党 当選 110,273票 1位
第48回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
4選
東京都 第20区 自由民主党 当選 107,686票 1位
第49回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
5選
東京都 第20区 自由民主党 当選 121,621票 1位
第50回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
6選
東京都 第20区 自由民主党 当選 93,390票 1位
第51回衆議院議員総選挙
定数:1 比例復活:なし
7選
東京都 第20区 自由民主党 当選 108,985票 1位

2012年に国政復帰、外務政務官から外務副大臣へ

2012年12月の第46回衆院選では98,070票を得て東京20区で当選。3年余りの浪人生活を経て国政へ復帰しました。

翌2013年9月には外務大臣政務官へ就任。2015年10月には外務副大臣となり、官僚時代に培った国際金融・海外勤務の経験とは別の立場から外交政策に携わります。

日本とモンゴルの経済連携協定(EPA)では、政治家として初めてEPA首席交渉官を務めました。2016年5月には、両国関係への貢献によりモンゴルから北極星勲章を授与されています。

2016年7月、バングラデシュの首都ダッカで日本人を含む多数が犠牲になった襲撃テロ事件が発生すると、外務副大臣として現地対策本部長を務めました。

外交・安全保障は、その後も継続して扱う政策分野となります。終戦の日には、戦没者への思いを本人公式Xでも発信してきました。

政治人生の転機 木原誠二の政治人生の転機
01
1999~2001年
英国大蔵省への出向から政治を志す
日本人として初めて英国大蔵省へ出向し、金融犯罪対策やアジア通貨危機分析に携わった。本人はこの時期のサッチャー元首相との出会いを、政治を志す契機として挙げている。
なぜ転機なのか 財務官僚として政策を執行する立場から、自ら政治家として政策をつくる道を意識するようになった。
02
2005年
自民党公募を勝ち抜き衆議院初当選
東京都第20区の候補者公募を経て、2005年の衆院選に出馬し112,634票で初当選した。
なぜ転機なのか 大蔵省・財務省で12年間歩んだ官僚生活を離れ、選挙で有権者から選ばれる政治家へ転身した。
03
2009~2012年
落選と民間企業勤務を経て国政復帰
2009年の衆院選で議席を失い、政策研究大学院大学の研究員や民間企業のコンサルタントとして働きながら地元活動を継続。2012年に東京20区で返り咲いた。
なぜ転機なのか 官僚・国会議員とは異なる民間の経済現場を経験しながら、約3年4カ月の浪人生活を経て再び国政へ戻った。
04
2021年
内閣官房副長官として官邸中枢へ
2021年10月、岸田内閣で内閣官房副長官と内閣総理大臣補佐官に就任し、安全保障や経済政策など政府横断の政策調整を担った。
なぜ転機なのか 外務政務官・副大臣や党の政策調整を経て、首相官邸で政権全体の政策調整に関わる立場へ進んだ。

党の政策調整役として成長戦略と社会保障をまとめる

2017年から2020年にかけては、自民党政務調査会副会長兼事務局長を務めました。当時の政調会長は岸田文雄氏です。

党内の個別政策を担当するだけではなく、2018年度から2020年度にかけての経済成長戦略、全世代型社会保障、財政構造改革など、政府・与党全体にまたがる政策の取りまとめを担いました。

社会保障分野では認知症対策にも長く関わっています。認知症施策推進大綱の策定や、軽度認知障害(MCI)の早期発見・早期対応を広げる取り組みを進めてきました。

子育て政策では「育休の在り方検討プロジェクトチーム」の座長を務め、男性が出生直後に育児休業を取りやすくする制度改革を提言。後の「産後パパ育休」につながる制度整備にも携わっています。

2021年、官房副長官として岸田政権の官邸中枢へ

2020年10月には衆議院内閣委員長となり、翌2021年10月、岸田内閣の発足とともに内閣官房副長官へ就任しました。国家安全保障を担当する内閣総理大臣補佐官も兼務します。

同月の第49回衆院選では121,621票を獲得し、5回目の当選。選挙期間中も東久留米、東村山、東大和などを回る日程を公式Xで発信していました。

官房副長官は各省庁の政策を横断して調整する立場です。木原氏は岸田政権が掲げた「新しい資本主義」、賃上げと投資の促進、安全保障政策などの調整に関わりました。

安全保障政策で語った「専守防衛」の原則

2022年12月には国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画の「安保3文書」が改定されました。木原氏は官房副長官として国家安全保障会議の4大臣会合にも参加しています。

反撃能力やスタンド・オフ防衛能力をめぐっては、防衛力を強化しながらも日本の基本原則は変わっていないとの認識を示しました。

「専守防衛という日本の原則は一切変えていない。」

出典:nippon.com「木原誠二官房副長官に聞く(前編)」(2023年6月8日)

一方、防衛費については、それまで実態上の枠とされてきたGDP比1%を取り払うことを「大きな転換」と位置付けています。

FOIPを「分断をさせないためのビジョン」と位置付ける

外交では、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」を軍事的な陣営づくりとしてではなく、外交を通じて協力国を広げる構想として説明しています。

「分断をさせないためのビジョン」

出典:nippon.com「木原誠二官房副長官に聞く(後編)」(2023年6月9日)

ASEANやインド、グローバル・サウスとの関係では、特定の「極」をつくらず、対等なパートナーシップを重視する考えを示しています。

2023年に官邸を離れ、自民党幹事長代理へ

2023年9月の内閣改造で官房副長官を退任すると、自民党幹事長代理兼政調会長特別補佐へ移りました。政府側から党側へ活動の中心を移し、政策と党運営の双方に関わります。

2024年11月には自由民主党選挙対策委員長へ就任。国政選挙や地方選挙で候補者擁立、選挙戦略を担う立場となりました。

2025年の参議院選挙では、政権を担うことについて経済だけでなく社会保障、教育、治安、防災、外交・安全保障まで責任を持つ必要があると訴えています。

「政権を担うには相応の準備も心構えも必要ではないか」

出典:自由民主党「『野党にその心構えはあるか』木原誠二選対委員長が政権担当能力を訴える」(2025年7月17日)

木原誠二氏が重視してきた主な政策

財務官僚、外務副大臣、党政調、官房副長官という経歴から、扱ってきた政策分野は幅広くなっています。特に継続性が見えるのは次の分野です。

  • 賃上げと投資による成長型経済
  • 財政・金融・デジタル金融
  • 全世代型社会保障と認知症・MCI対策
  • 男性育休を含む子育て支援
  • 外交・安全保障と経済安全保障
  • 北多摩の交通・防災・地域基盤整備

賃上げと投資を軸にした成長戦略

岸田政権では官房副長官として「新しい資本主義」の政策調整に関与し、2025年からは自民党日本成長戦略本部の幹事長として経済政策を担当しています。

2026年1月には、補正予算への依存を減らして複数年度の財政支出へ移行する考えを本人公式Xで詳しく説明しました。

年収の壁の引き上げ、ガソリン暫定税率の廃止、高校授業料や公立小学校給食をめぐる支援などにも、党の成長戦略側から関わっています。

AIとオンチェーン金融

財務省時代から金融政策に携わってきた経験を持ち、2026年には自民党の「次世代AI・オンチェーン金融構想プロジェクトチーム」で座長を務めました。

AIエージェントが商取引や決済を行う時代を見据え、ステーブルコイン、トークン化預金、国債や実物資産のトークン化などを一つの金融インフラとして検討しています。

2026年7月にはWebX2026にも登壇し、暗号資産だけでなくブロックチェーンを金融インフラ全体へ広げる構想を発信しました。

認知症とMCIへの対応

社会保障では、認知症施策推進大綱や認知症基本法に関わり、治療薬や診断技術の進歩に合わせてMCIの早期発見・早期治療を広げる取り組みを進めています。

医療だけで完結させるのではなく、自治体の健診や地域の支援体制へつなげることも重視しています。

子育てと男性育休

「育休の在り方プロジェクトチーム」では座長を務め、男性の育児参加を促す制度改革に関与しました。「産後パパ育休」の創設、児童手当の拡充、こども誰でも通園制度などを本人は政策実績として掲げています。

北多摩を「第二の故郷」として地域政策を進める

2005年の公募から政治基盤となった北多摩を、本人は「第二の故郷」と表現しています。多摩都市モノレールの延伸、東村山駅周辺の連続立体交差、各地域の水害対策や駅前整備などを地元政策として掲げています。

2026年の衆院選で7回目の当選

2024年10月の第50回衆院選では93,390票を獲得して6選。続く2026年2月8日の第51回衆院選にも東京20区から立候補しました。

2026年は108,985票を得て、7回目の衆議院議員当選となりました。

2005年の初当選から2026年まで、出馬した衆院選は8回。2009年の落選を除く7回で東京20区の議席を得ています。

2026年8月時点の木原誠二氏

2026年8月時点では、東京都第20区選出、当選7回の衆議院議員です。自由民主党では財務委員長、日本成長戦略本部幹事長、デジタル社会推進本部副本部長などを務めています。

衆議院では法務委員会理事を務めています。政府の大臣や官房副長官ではなく、党と国会を主な活動の場としています。

本人が現在の政治姿勢を表す際に使っているのが、次の言葉です。

「政治は、パフォーマンスではなく、日々の現実の暮らしを守るもの。」

出典:木原誠二オフィシャルサイト(2026年8月確認)

経済政策では成長戦略本部、金融・デジタル分野ではAI・オンチェーン金融、社会保障では認知症や子育て、外交では安全保障や価値観外交と、官僚時代からこれまでに経験してきた分野を横断して政策活動を続けています。

公職、所属政党、選挙区、当選回数、党役職などの変動情報は2026年8月23日時点で確認しています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
公式・一次情報
選挙・公的資料
報道・インタビュー

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